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【『プチフラワー』編集長・山本順也インタビュー 1994年】



MT(MANGA TECH)マンガテクニック季刊02
別冊BT│美術手帖1994年08月号
発行日:1994年08月15日
発 行:美術出版社






「MT(MANGA TECH)マンガテクニック季刊02」72-79ページ
編集見参!!
竹熊健太郎が聞く
『プチフラワー』編集長・山本順也氏の巻
(図版に続いてテキスト抽出あり)











編集見参!!

竹熊健太郎が聞く

自分が大人の女性になるに従い、少女たちの
ニーズに見合う作品を描けなくなってしまう………。
少女マンガの世界は、作家の移り変わりが激しいといわれる。
しかしそんな中で、いつの時代の少女をも、それどころか
少年や大人たちをも魅了する作品が残されてきた。
そうした作家たちとともに歩んできた編集者の話は、
少女マンガの歴史そのものといっても過言ではなかろう。

『プチフラワー』編集長・山本順也氏の巻



少女マンガは異世界だったね

竹熊 山本さんは現在『プチフラワー』の編集長をされていますが、七〇年代には『少女コミック』『別冊少女コミック』の編集者として、幾多の名作誕生に立合われています。本日はそのあたりのお話を中心にお伺いしたいと思いますが、まずは簡単に、これまでの経歴からお願いします。

山本 昭和三十八年に入社して、最初は婦人雑誌の『マドモアゼル』。今はもう、影も形もない雑誌だけどね(笑)。それからまもなく『幼稚園』かな。で、絵本の編集部に移って。『月刊幼児絵本』と『月刊小学館絵本』の二種類があって、それを毎月やってたんです。

竹熊 マンガを担当されたのはいつからですか。

山本 絵本の編集部にいた頃、手塚治虫先生の『ジャングル大帝』の出版がもちあがり、担当になりました。それが本当のマンガ家に出会った最初ですね。実はオリジナルの『ジャングル大帝』の原稿がだいぶ紛失しててね、仕方なく手塚先生がほとんど描き直したんですよ。だからこれは、大変に時間がかかった。全5巻刊行するのに三年くらいかかったかな。講談社の全集に入っている『ジャングル大帝』は、このとき完成したものですね。この仕事をしたおかげで、ぼくは手塚先生とはずいぶん親しくさせていただきました。

竹熊 少女マンガに移られたのは、どういうきっかけなんでしょうか。

山本 ある日突然少女マンガやれといわれたんですよ。小学館が『少女コミック』を創刊することになって、そこに配属されて。

竹熊 『少女コミック』は何年創刊ですか。

山本 昭和四十三年の五月。少女マンガ誌としては後発ですね。その当時はもう集英社から『りぼん』『マーガレット』が出てたし、講談社は『なかよし』『少女フレンド』光文社の『少女』なんかが出ていた。当時は学習雑誌には北島洋子さん、谷悠紀子さん、花村えい子さんとかのバレエマンガが主流でしたね。

竹熊 いわゆる“母もの”ですね。

山本 で、そういった作家さんの作品を総集編にしてスタートしたのが『少女コミック』の始まり。一番困ったのは、少女マンガってのは三十過ぎた男にはまさにミステリーゾーンだったことですよ。ぼくにとっては異世界だから。だから、ぼくはいろんなマンガを切り抜いて、キャラの顔をノートに貼って「これは誰々のだ」って識別から始めた人間だからねぇ(笑)。目の玉に星がいくつ入っているかってね。誰が誰やら全然分からない。

竹熊 当時の少女マンガってまだ男性作家が多かったんじゃないですか。

山本 いや、もうその頃はね、けっこう女性も出てましたよ。西谷祥子さん、里中満智子さんら各社若手がもう出てて。だけど『少女コミック』を創刊してからしばらくは作家さん集めにかなり苦労しましたね。連絡先なんて他社に聞いても教えてくれないし(笑)。

竹熊 目ぼしい作家さんは先行誌が押さえていたと。後発の弱味ですね。

山本 で、同じ頃に、虫プロから『COM』というマンガ雑誌が創刊されたんです。その当時『COM』に矢代まさこさんが描いてて、竹宮恵子(現・竹宮惠子)さんも投稿していた。彼女らの作品を見たら、それまでの少女マンガとは違う感じがあったんだよね。それで『COM』の山崎編集長と懇意になって、情報をもらったり矢代さん竹宮さん、新城さちこさん、岡田史子さんと接点ができたんです。岡田さんが出たときは、手塚先生喜んでね。「天才が出た!」なんて。先生が天才っていったのは絶対売れない(?)んだけど(笑)。それ以来岡田さんとは親しくなってね。今は引退してるんだけど、現在も連絡をとり合ってい ます。



ぼくは業界の暴れ牛(?)だった(笑)

山本 昭和四十五年頃かな。集英社から『りぼんコミック』っていうのが出たんですよ。そこから一条(ゆかり)さん、山岸(涼子)さん、もりじゅん(もりたじゅん)ちゃんだとかが続々と出てきた。もう、すごい衝撃だったね。

竹熊 それは新しい感覚の作家が出てきたっていうことなんでしょうか。

山本 うん。従来の少女マンガの枠から離れた可能性みたいなものがね、見えて来た気がした。そういう強力な新人の中でも、やっぱり最初に目がいったのは竹宮さんでしたね。竹宮さんは『COM』の投稿を経て、『マーガレット』でデビューし、『なかよし』で連載してたんですよ。まだ学生だったかな。 ぼく、彼女の実家がある徳島まで飛んで行って、口説き落として執筆の承諾をとりました。その当時からぼくは業界の暴れ牛(?)だった。他社の批判も浴びましたね。

竹熊 それは怒るでしょう(笑)。

山本 そのとき竹宮さんと仕事のおつき合いしていたのが萩尾望都さんでね。彼女がぼくに会うチャンスがきた。これが萩尾さんとの出会いです。ぼくと萩尾さんとの最初の出会い、なんて誤解する人がいるんだけど、彼女、最初は講談社です。デビューは『なかよし』だったかな。彼女に会ったら、講談社でボツになったコンテ、ネームをたく さん見せてくれたんです。

竹熊 そんなにあったんですかボツネームが。

山本 見たらほとんどそのまま使えるネームなんですよ。それこそ目から鱗がとれるみたいな。「何故これがボツに?」って感じでした。後はもう、この中のどういう作品がいいのかって順番を決めるだけだったんですよね。今思えば贅沢な、楽しい作業だったですよ。

竹熊 山本さんからご覧になって、萩尾望都さん、竹宮惠子さんのどのへんにショックがあったんでしょうか。

山本 もちろんお二人だけじゃないけど、女性の感性というものが、初めてストレートに登場してきたというショックですよね。それ以前の少女マンガっていうのはやはりどこか少女像がパターン化されてて。
彼女たちもそれを読んで育ったわけだけど、精神的に満足できなかった読者だと思うのね。だからお仕着せの少女マンガでは望めない、自己表現欲求みたいなものがあったんじゃないかな。それと、手塚先生の作品世界との出合いこそ、大きな要因ですよ。一方、時代の流れもありましたね。まさに女性の社会進出が始まる時代だった。うまく、そういう時代の流れと、彼女らの表現意欲がシンクロしたんじゃないかと思うんだけど。
彼女たちの作品で一番感心したのは、登場人物、主人公たちの型っていうものが、男の頭に概念的に浮かんでいる少女たちとは違う、もちろん少年たちもしかり、生き生きしたものがあったんですよね。なるほど、こういう少女像もあったんだっていうショックですよ。とにかく、彼女たちにいろいろ教わりました。今でもですが……。



作家を「育てる」なんておこがましい

山本 今だから白状するけど、ぼくが担当した作家さんて、ほとんど講談社系の方が多かったですよ(笑)。萩尾さんがそうだし、牧野和子さん、名香智子さんもそうです。

竹熊 よその会社にしてみれば……。

山本 系列会社から引き抜くのはプライドが許さないし、どうせならライヴァル会社から持ってきた方がね(笑)。

竹熊 だからどんどん各社のガードが固くなっていくわけですね(笑)。

山本 ぼく、編集者が作家を育てるなんて、大それたこと思ったことないね。編集者がいくら指導したところで、結局は作家の才能次第ですから。だからぼくは未だに、アマチュア的な感覚というのを自分の中から無くさないようにつとめている。作家が編集者を育てるし編集者が作家を育てる、そういう「お互い」の関係が、一番正常なんじゃないかなあと。信頼関係も含めて……。

竹熊 なるほど。編集者が必要以上に過去の経験や、自分の中で固定化したモノサシをふりかざすのは危険だということですね。

山本 だからぼくは周囲の編集者とはずいぶんやりあったんですよ。もちろん彼らだって教養のある人たちです。それでも萩尾さん竹宮さんを連れて来たときには周囲の抵抗がありましたよ。ちょっと違うんじゃないの、と。作品を理解できても、これは読者に受けないんじゃないかっていう……。

竹熊 あまりにも文学的というか、そういう評価だったんでしょうか。

山本 それは常についてまわっていた。その人たちはそんなのすぐに見抜けるから。先輩が『マーガレット』の編集長やったり、『りぼん』の編集長やったりしててね。彼らが作ってる雑誌からみたら、お前なにやってるんだという事になるよね(笑)。もっと若い読者のことを考えろといわれたりも。でも、それが結果的には、ウチ独自の世界になっていったような気がするね。



大泉サロンの思い出

竹熊 そういえば竹宮さん萩尾さんが共同生活をしていた時期があったそうですね。少女マンガ版トキワ荘というか。

山本 ああ、大泉サロン。七六年頃の話だったかなあ。トキワ荘と違うのは、それぞれがもう活躍を始めててねえ。はじめのころ六畳一間に竹宮、萩尾のお二人が同居していたんですよ。で、ある時、大泉に一軒家があいてるってんでお二人が引っ越した。それから山田ミネコさんだとか、いろんな女性作家がその家に遊びにくるようになって。ある時ぼくが陣中見舞いに行ったら千客万来で、萩尾さんの座るところがなくなってて、階段に座ってネームやってた(笑)。まあ、仕事抜きであそこまでつきあえる人間関係ってうらやましいと思ったね。

竹熊 みなさん、もうそれぞれ一家を成してたんですよね。

山本 だからよけいね、佐藤史生ちゃんだとか、伊東愛子さんだとか、ほとんどあそこに出入りしてたんじゃないかな。今にして思えば、そうそうたるメンバーですよ。

竹熊 ある意味ではみんなライヴァルですよね。

山本 昔は編集者同士、作家同士で情報交換とかあったんだけど、今はまったくない。だからあれは本当に貴重な時代だったと思いますね。しかし、さすがにぼくは男だから女の園に足を踏み入れるっていうのがね(笑)。

竹熊 女子寮を覗いているような(笑)。男性の編集者として、女性作家とつきあう苦労とかはやはりありましたでしょう。

山本 やはりいくら仕事とはいえ、一番つらかったのは親御さんから預かった女性の部屋に入るってことでしたね。作家であると同時にひとりの女性であり、生活の場ですから。そこまでプライヴェートに踏み込んで良いものかと。緊張があったですよ、長い間。

竹熊 それでも締め切り間際になってくると、そういってられないでしょう。

山本 夜中に平気で長居するとか、未だにぼく出来ないですよ、本当に。ただ酔っ払ってね、他社の仕事を邪魔するってのはよくあるらしいけど。夜中の二時三時に「おーい」なんて電話入れたりして(笑)。



少女マンガと「性」

竹熊 それで、いよいよ『少女コミック』が本誌・別冊と軌道に乗って、作品のラインナップも揃ってきたわけですね。当時手掛けられた作品で、特に思い入れのあるものといいますと……。

山本 すべての作品に思い出が絡み合っているんだけど。ただ、竹宮さんは相当早い時期に「風と木の詩」のモチーフは出してましたよ。当時、構想を聞いて「ちょっと待ってくれ」といったことはありました。ぼく自身は少年愛ってのは嫌いじゃないんですよ。お話としてはね。で、竹宮さんに、これ自費出版にしたらといったことはある。そのときは編集手伝うからって。ぼく自身、これからの少女マンガの方向ってのが読み取れなかったんですね、その時点では。
あと萩尾さんに会って間もない頃ですけど、彼女、恋愛物よりSFが描きたいっていうんですよ。 当時は少女マンガとSFって距離があったし、やらせるべきか、自分が納得するのに時間がかかったのは事実ですね。

竹熊 じゃあ「風と木の詩」や「11人いる!」 などは、かなり初期 からアイディアはあったんですね。

山本 そんなふうに記憶しているね。じゃあ、そのためには頑張って金ためて、自費出版しようってね(笑)。そういう話は未だに思い出しますよ。

竹熊 “タブーを破る勢い”が当時の少女マンガには確かにありましたよね。特に竹宮さんの「風と木の詩」などは、少年の同性愛といった形で大胆に性をとり扱って各界に衝撃を与えましたが……。

山本 その当時、世間は興味本位でとりあげただけだった。集英社の「ベルばら」がレズの話で、ウチの「風と木」はホモだとか(笑)。そういったレヴェルの認識で、まだまだ大人社会とマンガとは遠距離なんだなって思ったことはありますね。

竹熊 ビシッとしたドラマを描こうとすると、結局人間を描かなきゃならない。人間を描くためにはどうしても性の問題が出てきますよね。避けられないと思うんですが、それをどのように描くかというところで、竹宮さんたちは外国を舞台にした少年愛という、観念的な領域で描かれましたね。

山本 これは彼女たちにもいいましたが、大人の世界の「性」については、雑誌を作るうえで触れるのを避けようと思ったんですよ。触れちゃうとあまりにも生々しくなり過ぎる。だから彼女たちが取り上げた性というものは、あくまでも思春期の人間の、精神的な成長のプロセスの中の性ですよね。まさにガラス細工です。それが彼女たちの創作理念だったと思いますよ。もしもアレを東京の高校生の制服でやったらどうなります?

竹熊 違うものになっちゃいますね。

山本 全く違いますよ。その後、吉田秋生さんが「吉祥天女」を描いた。日本の学校の制服ってのは個性を包みこんじゃうものなんですよね。それが彼女にとってのテーマだったと思う。もっと日本的な家族の仕組みだと人間関係だとかを描きたかったわけで、それはそれでぼくは好きなんだけど。竹宮さんたちがヨーロッパを舞台にしたのは、どうしてもそういう舞台が必要だったということです。別に現実から逃げたとかそういうんじゃなくて、一番いい透明感があるでしょ。

竹熊 観念的なんだけど、だからこそ現実的な夾雑物を排した、宝石のような世界が描けるわけですね。そういう種類のエロスって確かにありますね。能なんてまさにそうだけど。

山本 それもまた人間を描くってことなんだよね。でもね、集英社がレズでうちがホモだっていわれたときにはさすがに参ったね(笑)。

竹熊 そういう要素って人を引き付けますからね。手塚さんの「リボンの騎士」だってそうでしょう。

山本 ただ、彼女たちがいつまでも同じところに止まってると思ったら大間違いですよ。たとえば萩尾さんが今『プチフラワー』で描いてる 「残酷な神が支配する」なんかはね。

竹熊 あれは家庭内の生臭い設定の話ですね。

山本 彼女なりのデフォルメを感じるけど、萩尾さんは肝心な部分を決してごまかさないから、期待してるんですけどね。そりゃあ一部の読者からは非難もあります。でもちゃんと読んでる(笑)。どんなにカッキリした、一見うまくいってるように見える家族でも、危なっかしいところはいっぱいあるんだよ。

竹熊 萩尾さんは最近、テーマがそういう方向になってますね。

山本 なってるね。彼女はこれまで、わりと書斎派的で観念的なミクロコスモスを作ってたんだけど、「メッシュ」あたりから、種々の人間関係、心理的側面を描き始めた。

竹熊 やはりそれは萩尾さんの時代感覚なんでしょうか。

山本 昔とは違って、読者も現実を直視し生活に対するリアリティを求めるからね。絵空事だけじゃ駄目。でもぼく、純粋な絵空事ってのも好きなんだけどね、ほんとは(笑)。

竹熊 夢とか憧れっていう日常生活から離れた部分っていうのは、少女マンガに限らずマンガの本質なのかもしれませんよ。

山本 夢や憧れだけは絶対に外したくないよね。



作品から滲み出る「人柄」がすべてです

竹熊 作家を育てるっていうのはおこがましいという発言がさきほどありましたね。でも仕事として持ち込みの新人と接することがあると思うんですけど、そんなときはどのように対応されるんですか?

山本 これはぼく自身のやり方なんだけど、作品にその人の年輪、生活実感が感じとれるかどうかに注目しますね。だって一緒に生活しているわけじゃないし、どういう環境で育ったのかも分からない。新人をみる場合は、その作品に滲み出ている人柄を買うって事かな、簡単にいえば。それからスタートすればまず間違いない。絵なんかたくさん描けばうまくなるんだから。
新人の技術的な側面っていうのは、最初は自分の中にモノサシがなかったんですよ。どれがいい、悪いというモノサシがね。今でこそ、プロの作品みてるから「この程度は」っていう基準はありますけど。でも仕事を始めた当初から一貫しているのは、とにかく、自分に面白いマンガが読みたいということです。読んでみて、自分で直観的にわからないのは怖い……。

竹熊 自分の「読者」としての部分に忠実にふるまわれるのが山本さんのやり方なんですね。読み手としての自分の感性を信じるという。編集者は大きくわけてプロデューサー型と読者型の二種類があると思うんですが、前者を「指導タイプ」、後者を「応援タイプ」とすれば、山本さんは後者ですね。作家にとってはこんなに有難い存在はないですよ(笑)。

山本 ぼくが編集者として一番心掛けていることは、作家が作品を作りやすいようにするフィ ールド作り。力の差こそあれ、それぞれ最大のいい仕事になるよう支援してあげたいと常に考えてますね。最終的には本人の力で描いてもらわなきゃ困るから。 ぼくらにできるのは、 物書きにとって一番いい環境作りかなと。創作活動にワクをはめたり、切り札で押さえつけたりするんじゃなくね。



年齢と「若さ」は、必ずしも関係はない

竹熊 これはマンガ家志望者向けの雑誌ですので、これからの新人に向けて、編集者としてメッセージはございませんか。もっとも『プチフラワー』は、新人には少し敷居が高いかもしれませんが(笑)。

山本 他で活躍している作家さんでも、ぜひ『プチフラワー』に描きたいっていう方は結構多いですよ。新人の登竜門としては、そうですね、とりあえずは『ちゃお』であったり、『少コミ』、あるいは『別コミ』であったり、自分の年齢、経験に見合った雑誌にまず挑戦してみることじゃないかしら。
もちろんウチでもなるべく若手を起用しようとは思ってます。最近では西炯子や紫堂恭子さんが出てきてるけども、十年選手でやっと花が咲いたりして、やっぱり時間かかるしね。でもそんなに早くからデビューしてもしょうがないと思う。二十五、六歳までに納得できる作品ができれば、必ず成功できると信じていいと思ってます。

竹熊 昔はよく、少女マンガ家のデビューは早い方がいいといわれてましたよね。

山本 現在そういうことは少ないでしょう。まあ読者の年代に合わせて、そういう若い感性を必要とすることはあるんだけれども、その場合編集者の力が大きく左右してくる。いい編集者に当たればいいけど、ひとつ間 違うと才能をつぶしちゃうことにもなる。

竹熊 若い新人と接するときには編集者が相当しっかりしてないとダメですね。作家の側から考えると、人生経験を積んでおけば、多少へんな担当に当たっても大丈夫だと(笑)。

山本 もちろん若さは必要ですよ。それは年齢的な若さではなくて、好奇心だよね。ウチの作家さんたちがいい作品作ってくれるのも、ミーハー精神旺盛だからですよ。なんにでも興味持ってる。自分自身を磨きあげるためにね、好奇心のアンテナはいつまでも持っていなきゃ。



この雑誌は、少女マンガ最後の砦なんだ

山本 ぼくが『プチフラワー』の編集長になってもう十年かな。現在、読者の平均年齢は二十六、七歳なんですが、そういった意味では少女マンガ誌って呼ぶのは問題があるんだけど(笑)、だからといってレディスコミックではないしね。結局この雑誌はピュアな少女マンガ路線だと言っておきます。
じゃあ、少女マンガの定義、限界はどこにあるのかと。例えば『別コミ』で連載した吉田秋生さんの「バナナフィッシュ」。あれ、傑作ですよ。ただ少女マンガっていう言葉でてくれるかっていうと……もう、ほっとくしかないよね(笑)。

竹熊 あれは男性向け青年誌に載っててもおかしくないですよね。

山本 全然違和感ない。だから、そういった幅の広さっていうのは、ウチ(小学館)の独特の世界なんじゃないかなと。ただぼくとしてはあくまで“少女マンガ”にこだわりたいんです。はたして『プチフラワー』は“少女マンガ”であり続けられるのかどうか。読者のみなさんアドヴァイスください! いわば最後の砦として、今、立ち会っているんだけどね。少女マンガでなくなったときにはやめなきゃならないだろうし。
実はね、長いつきあいの作家さんとお互いに約束してるんですよ。マンガ家として、あるいは編集者として、力尽きたら事前に連絡もなく突然「やーめよ」っていうのはよそうねって。万一限界を感じたら、半年くらい前に知らせ合おうと。で、いざそうなったときは表紙にでっかい数字印刷して、あと何号とカウントダウンやろうって(笑)。
ぼくはマイペースでやってるから。(雑誌の)幕を将来ある人に引かせちゃうとかわいそうだから自分で引くと常づねいってるからね、あちこちで。その代わり、作家さんはどこでも活躍(?)できる人たちばかりだから大丈夫でしょうね。

竹熊 なに寂しいことをおっしゃってるんですか(笑)。

山本 だから冗談ですよ(笑)。ぼく、まだまだその年代の作家さんと仕事したいしね。山岸さん、青池さん、大島さんともやりたいし、竹宮さん、萩尾さん、木原さんとも。もちろんヴェテランばかりじゃありませんよ。実は今注目している新人が何人かいるんです。だからちょっとね、見ていてくださいよ(笑)。




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