5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

【「変奏曲」あとがき2種:1980年・1988年】



1)【「変奏曲」あとがき:竹宮恵子・1980年版
自作であることを繰り返し語っている
「七つ八つの小学生時代から、ヴィレンツ物語は、私の心に広がり始めました」
「物語が完成したのは、二十歳をわずかに越した頃と記憶しております」
「私の成長とあまりにも密着して育ったこの物語」
「私の夢空間を漫画化した」



2)【「変奏曲」あとがき:竹宮惠子・1988年版
初出(花とゆめ1974年09月号『ヴィレンツ物語』)から14年後の1988年に出版されたペーパームーンコミックス版において竹宮惠子は初めて「この『変奏曲シリーズ』は原作者名つきなのです」と、原作者を明かしている

原作者名の公表:竹宮惠子・1988年
「そう、この『変奏曲シリーズ』は原作者名つきなのです」
「それは、原作者名をこうしてあきらかにすることでした」
「私と彼女の初めての共同制作作品は『ロベルティーノ!』です」
「この作品は、私(竹宮)が彼女(増山)と出会う前から彼女の中にあり、ウォルフが死んでしまうまでのストーリーは完全に出来あがっていました」
「小説を書いているけど構成力に自信がない人、漫画家になりたいけど、話づくりがダメな人、彼女(増山)の言葉にのせられて、天才になってみたくはありませんか」

「変奏曲」あとがき:増山のりえ・1988年
「“ヴイレンツ物語”が形を成してきたのは小学生の頃」
「「“ヴイレンツ”を自分に漫画化させてほしい」と竹宮から言われた」
「原作にしと合作にしろ、私は自分の名前を出す事を拒んできました」
「ようやく今回「保存版」ともいうべき“変奏曲シリーズ”に名前を載せる決心がつきました」
「私が創った物語とはいえ、すでに“二人の作品”になっているわけです」



3)また、1997年には音楽漫画共作集「ウィーン協奏曲」(創美社)にて以下の対談が掲載されている
竹宮惠子・増山のりえ:スペシャル対談

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