5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

【まんがナビ対談:荒俣宏・竹宮惠子】その2
eBookJapan「荒俣宏の電子まんがナビゲーター」

荒俣宏の電子まんがナビゲーター:魚拓
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資料提供
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第2回:竹宮惠子編
その2「大泉サロン」の時代の巻
2010年09月10日

註:対談部分を中心に採録
全文は「荒俣宏の電子まんがナビゲーター」(各見出し下のURL)にてご確認ください


■まんが家は集団文化を生む
https://web.archive.org/web/20140712051652/http://...

竹宮惠子さんといえば、どうしても、少女まんがを革新する多数の同志が集った「大泉サロン」のことが気にかかる。竹宮さんはその中心にいた。これは、戦後生まれの少女まんが家たちによる第二の「トキワ荘」物語ともいえる。

(荒俣宏の解説・略)

■コミュニティを持てた幸せ
https://web.archive.org/web/20141010183651/http://...

荒俣●今回は、竹宮さんが「同期の桜」の人たちと歩んでこられた怒涛(どとう)の時代の一部をテーマにいたします。

竹宮●あらぁ、そんな古い話を覚えているかなー。

荒俣●それでは、呼び水として、僕の思い出話をしましょう。僕は、最初、まんが家志望のグループとお付き合いしていて、アニメーションまで作ったことがあるんですよ。20歳くらいのときでしたが、大会社の清水建設にCMアニメの見本を持ち込んだこともあります。ですが、その後は、海外の幻想文学やSFに惚れこんで、SFのファンクラブで人脈を作りました。その頃、同年齢の作家・翻訳家志望者がたくさんいて、鏡明(かがみ あきら:1948〜)さんやら、横田順彌(よこた・じゅんや:1945〜)さんやらと原稿書きの工房を作りました。われわれの目標は、植草甚一(うえくさ・じんいち:1908〜1979)さんや、大橋巨泉(おおはし・きょせん:1934〜)さんみたいな、趣味人かつ海外事情通になることだったんです。で、ずっとあとになって、藤森照信(ふじもり・てるのぶ:1946〜)さんたちと路上観察団をやっているころに、かねて憧れの一人だった永六輔(えい・ろくすけ:1933〜)さんと1年間仕事をする機会があったときの話ですが……。

竹宮●はい。永さんなら、ラジオとかもよく聴いてましたよ。

荒俣●永さんに、三木鶏郎(みき・とりろう:1914〜1994)さんとか、中村八大(なかむら・はちだい:1931〜1992)さんらと新しい歌やコントを生み出し、放送の新天地を築いたときの話を訊いてみたんです。若い頃から大スターになったことについて、ですね。そしたら逆に、永六輔さんから、「あんたたちのほうが羨(うらや)ましいよ」って言われたんです。

竹宮●ふんふん、なぜなんでしょうか。

荒俣●永さんがおっしゃるには、「有名になった後に知り合っても、ほんとうには楽しめない。でも、あんたたちは、まだ卵のうちから、作家になるとも、なんになるとも言えないファンの段階から、勝手に集まって、自由に伸びてきた」と (笑)。

竹宮●あはは(笑)。つまり、「ヒラバ(平場)」の楽しさですよね。

荒俣●仕事を進化させるライバルも重要だけど、仲間もいいもんだ、と。全然、金にもならないようなことも、できてしまう。

竹宮●そうですね。今から思うと、「コミュニティ」といえるような感じのことですよね。

荒俣●そう、コミュニティ、ぴったりの言葉ですね、それ。竹宮さんの場合は、やっぱり「大泉サロン」でしょう。あれはすごいコミュニティでした。最初に竹宮さんと萩尾望都(はぎお・もと:1949〜)さんが入居して、やがて、山岸凉子(やまぎし・りょうこ:1947〜)さん、山田ミネコ(やまだ・みねこ:1949〜)さん、ささやななえこ(1950〜)さん、佐藤史生(さとう・しお:1952〜)さん、坂田靖子(さかた・やすこ:1953〜)さん、などなど。

竹宮●へぇ、そうですか。そりゃ、楽しそう。

荒俣●そのとき、かつての大泉での生活を、「こんな先輩がいて、ときどき家に転がり込んでいた」なんて話を懐かしそうにされていて、昔の梁山泊(りょうざんぱく)みたいな感じがしました。

竹宮●それは、やっぱり、その前に「トキワ荘」があったから、

荒俣●あぁ、「トキワ荘」の女性版という意識がおありだったんですね。

竹宮●「トキワ荘」の噂を聞いて、心踊らない人はいないと思いますよ、まんがやっている人にとって。やっぱり自分もそういうコミュニティにいられたらいいのにって、みんな憧れますよね。それを、「大泉サロン」っていう形で、再現しようと目論見(もくろみ)を持った人がいたわけです。

荒俣●それは、竹宮さんの発案じゃなくて?

竹宮●いや、私じゃなくて、萩尾さんでもなくて、あの増山さんっていう…。

荒俣●あぁ、増山法恵(ますやま・のりえ:まんが原作者 1950〜)さん。やっぱりあの人がそういう計画を持ったんですか。

竹宮●その通りですね。彼女が目論んで…。

荒俣●あぁ、そうですか。

竹宮●私と萩尾さんがいればきっと、惹(ひ)かれてというか、いろんな人が来てくれるに違いないということで、自分のうちの近くに部屋が空いたので住まないか、ってことになったんです。練馬区の大泉の、増山さん宅の斜め向かいに。

荒俣●そうすると、増山さんが竹宮さんと萩尾さんに声をかけてきたんですか?

竹宮●最初は、増山さんと萩尾さんがペンフレンド(すごい古い感じ!)で。私は萩尾さんにアシスタントしてもらってから、その仲間に入りました。そうこうするうちに、いろいろ私達のところへ読者から手紙が来ますよね。

荒俣●えぇ。はい。

竹宮●それで、手紙が来た人の中で、この人はいけるんじゃないかっていう人に、「遊びにきませんか?」って声をかけて、遊びに来てもらうんですよ。

荒俣●はい。勧誘ですね。

竹宮●で、そうやってやりとりしてみたり、泊ってもらったりしているうちに、みなさんがまんが家になっていったりするわけです。

荒俣●あそこから出てった人々って、ほとんどが後に偉い人になっている。才能を見抜いて、勧誘したからかな?

竹宮●金沢の「ラブリ」っていう少女同人サークルの、坂田靖子さんと、花郁悠紀子(かい・ゆきこ:1954〜1980)さん、波津彬子(はつ・あきこ:1959〜)さんたちとも、「大泉サロン」で合流しました。

荒俣●はい。それから、森川久美(もりかわ・くみ)さんとか。

竹宮●はい、そうですね。森川さんは、まだもうちょっと後の時代になるんですけど。

荒俣●花郁さんは同じ世代ですか?

竹宮●いえ。同じ世代じゃなくて、彼女はその時はまだ、高校生でした。

荒俣●あっ、高校生なんだ。

竹宮●高校生なんだけども、ファンレターを送って来ていて「ぜひ、遊びに行きたいから」っていうことで会って…。

荒俣●花郁さんも独特な才能をもった人でしたが、惜しくも、あんなに若くして亡くなられた。

竹宮●もう、ほんとに早くて…ただもう驚きました。

荒俣●こうやって振り返ると、みなさん、個性的で、自分の世界をもっていましたね。内容がなんか不思議だったですよね。あれはやっぱりそういう所に集まっていると、みなさん仲が良いんだけれども、やっぱり切磋琢磨の気分がひとりでに生まれてくるというか…。

竹宮●自分の趣味的世界っていうのを、なんとか形にしようと、頑張るっていう感じでしたね。早く自分だけの世界を持たなくちゃ、と…。

荒俣●はい。

竹宮●でも、(趣味的世界を形にすると)絶対に、逆境になるわけですよ。デビューしたら(編集者からは、)もっとメジャーなものを描きなさいっとか言われるのが当然ながら普通のことですよね。

荒俣●なるほど。

竹宮●それをなんとか自分の好きな世界に引っ張っていかなきゃいけない。そんな時、一緒に住んでいることには意味がありました。「編集者にこういうこと言われるのよ」って相談できるし、「いや、まぁ、それは気にせずに」とか、そういうことが素直に言えるような場所だった。

荒俣●それはいいなぁ。

竹宮●そういうことをするために作った場所でもあったので、私と萩尾さんは、それを支えているみたいな状態でしたね。

荒俣●あぁ、そうですか。あと、どんなメンバーがいましたか?「大泉サロン」には。

竹宮●えぇっと、大泉サロンの噂をきいて、山岸凉子さんが興味を持って、訪れてくださって。その時は、もりたじゅん(もりた じゅん:1948〜)さんも一緒でしたね。

荒俣●なんだかネズミ講みたいじゃないですか。友だちが友だちを連れてくるなんて。

竹宮●ふふふ(笑)。もりたさんは、私たちが描こうとしている世界と全然関係ない世界の人だったんですけれども私は会ってみたい人だったので。

荒俣●えぇ。

竹宮●山岸さんは、同じ系列な感じだったので、交流が深まりました。

荒俣●はい、そうですか。豪華なメンバーですね。

竹宮●まぁ、そこからずいぶん親交が広がっていきまして、みんなでまんがの勉強したり、本を読んだり映画を観たり、旅行もして…。すごい大冒険にも挑戦したんですよ。あるとき、みんなでヨーロッパへ行こうっていう話になりました。

荒俣●じゃ、東京の名所へは行かずに、石森さん宅へ。

竹宮●(名所へは)いっさい行かずに。東京は石ノ森先生の家だけだ、みたいな感じで。

荒俣●はぁ、確信犯ですな。

竹宮●ははは(笑)。そうですね。で、まぁ、同人誌の仲間もいるわけですから。みんなで集まって、ミーティングみたいなのをしたりして、すごく楽しい時間を過ごしました。

荒俣●えっ? ついに、集団旅行ですか! いつ頃の話ですか?

竹宮●あのジャルパック(※2)さえも、それほど一般的ではない頃で、すごい昔です。

荒俣●ジャルパックがない頃!うわぁ。

竹宮●私が22歳の頃(1972年頃)です。

※2 日本航空が1964年に発売開始した日本初の海外パッケージ商品ブランド。第一陣は「ヨーロッパ16日間コース」で費用は67万5000円だった。

■ヨーロッパ旅行のツアコンも?
https://web.archive.org/web/20141006233632/http://...

荒俣●22歳。あぁ、そうですか。じゃ、僕は24歳くらい。僕はその翌年あたりに、鏡明とアメリカへ本を買い出しに行きましたけど、同じ頃ですね。確かに、あの当時はアメリカへ行くのも、ほんとに決死の大冒険でしたもの。

竹宮●ええ、私も21か、22(歳)ぐらいの頃ですから、ほんとに無鉄砲でした。ツアーパックみたいに簡単じゃないからこそ、自由で。

荒俣●まだパンナム(パンアメリカン航空)が元気な頃ですよね。

竹宮●あっ、そうですね。

荒俣●それで、どうやってグループ旅行を成功させたんですか?

竹宮●私がね、いろいろスケジュールやらを組みました。実は、私は「鉄女(※3)」なところがありまして、鉄道が好きなんです。

荒俣●え、そうなんですか。

竹宮●で、鉄道の博物館を見たりとか、そういう趣味があるんです。

荒俣●そうだったんですか。

竹宮●当時、「ヨーロッパの鉄道を乗り継いで歩こう」みたいな本が盛んに出ていたんです。その中に、『クックの時刻表』(※4)という。ヨーロッパ大陸を鉄道で乗り継いでいくための時刻表があって……。

荒俣●あぁ。トーマス・クック社の。

竹宮●丸善で洋書の『クックの時刻表』を買って、どうやってそれを読むのかの日本語の解説書と併せて読んでみたんですよ。

荒俣●うわぁ、じゃ、手作り旅行だ。本当に。えぇ。

竹宮●自分の中で旅程を想定して、ここからここまで行くには、何に乗るか? 何時に、どこを発てばいいのか? というのをやると、あっ、ツアーコンダクターってこういう風にすればいいんだなってわかる。仲間達それぞれの見たいものを聞いて組み立てて…(笑)

荒俣●竹宮さん、ツアコンやったんですか?

竹宮●ははは(笑)。それこそ冒険ですよね。

荒俣●ものすごいことですよ、当時としては。

竹宮●まだ飛行機で一気に飛ぶほどのお金はなくて、しかも今のように安いツアーなんかないですから。

荒俣●じゃ、まず大陸に船で渡って、みたいな。ナホトカあたりから?

竹宮●はい、ナホトカ廻りです。横浜から3日かけて、ナホトカまで船で行くんですよ。

荒俣●それ、何月にいらっしゃたんですか?

竹宮●えぇっとですね、いつだったかな。まだ寒くはなってなかったですよ。秋です。

荒俣●秋ですか。

竹宮●9月。

荒俣●あっ、9月ね。ギリギリだなぁ。

竹宮●えぇ、ハイシーズンは高いし、それで、9月だったら安いからと。

荒俣●うわぁ〜、すごい。そこまで考えたんですか。完璧なツアコンだ!

竹宮●それで、旅費を安くすれば、その分だけヨーロッパに長くいられるんじゃないかと。1日いくらかかるか計算して、えぇっとですね、いくらくらい使ったんだろう。あの頃70万(円)くらい使ったかな?

荒俣●あっ、そうですか。でも、今の金額に直せば4〜5倍でしょう。350万円くらい掛かったような感じですよ。ふつうのサラリーマンだと年収より多い額ですよ。

竹宮●全部で45日間もいたんですよ。それで350万円なら、一日あたり7万円とちょっとになりますか。私の記憶では、1日平均1.000円(食費も込みで)の予算でした。

荒俣●いえ、それは僕の実感で換算しただけですけどね。でも、当時70万円使ったのはすごい。45日間もいたのも、すごいですね。

竹宮●45日間、ヨーロッパにずっと居て、ちっとも帰りたくなかったなぁ〜。

荒俣●あの時じゃないとできなかったですね。それは。えぇ。

竹宮●そうですね。でも、まだ日本人なんかフリー(ツアー)では来ない状態ですからね。現地の人もいったい、何事が起きたのかっていう感じで、私たちを見ていたんじゃないですか。

荒俣●でしょうねー。

竹宮●いろんなところで、いろんな人たちに、一体この子供たちは何なんだ、みたいな感じで扱われながら(笑)。

荒俣●そうですか。じゃぁ、ロシアを横断して、

竹宮●えぇ、横断っていうか、あの、ハバロフスクまでは鉄道に乗りましたけど…。

荒俣●えぇ。(ハバロフスクまで)鉄道に乗って…。

竹宮●さすがにそこからは、飛行機で飛んで…。

荒俣●飛行機で飛んで…。どこへ行ったんですか?

竹宮●モスクワ。

荒俣●モスクワへ。あぁ。

竹宮●それで、モスクワへ入って3日間だったかな、滞在して…。

荒俣●はい。

竹宮●そこから、スウェーデンのストックホルムに行きました…。

荒俣●ストックホルム?

竹宮●最後はウィーンから出国するっていうのは、決めていたんです。ウィーンから出発する飛行機をあらかじめ選んでいたので、だから絶対ウィーンに行かないといけない訳ですよ。

荒俣●うわぁー、すごいな。

竹宮●ひとところに多くて5日、そういう旅をずっとしていたんですね。

荒俣●その頃だったら、モスクワってあれですよね、女性の兵隊がたくさん歩いていて、飛行場だか、監獄だかわからない頃ですよね。

竹宮●いや、もう完全に“ソ連”ですから。

荒俣●えぇ。

竹宮●ですから、写真を撮っているのが、兵士にわかったらフィルム抜かれてしまうから、空港とか、鉄道の駅では、絶対にフラッシュたいちゃダメみたいな。

荒俣●はぁはぁ。朝も昼間も、軍隊がウロウロいるところですよね。

竹宮●そうなんですよ。モスクワのホテルで、寝ようと思ったら、すごい音がするんですよ。なんだと思って、窓からこうやって開けてみたら、戦車がガーーって走ってる(笑)。

荒俣●ははは(笑)

竹宮●ホテルの前ですよ!(笑)

荒俣●戦時中だよ。

竹宮●外国人が泊るホテルの前の道路を、戦車が夜中の2時頃だったかな? 移動してるんですよ。びっくりしたなぁ。

荒俣●ははぁ。すごい旅を……。

竹宮●まぁ、そんなこんなことをいろいろとやってきました。

荒俣●でも、その体験が、少女まんがを革新する原動力の一つになったと思いますよ。なにしろ、ほんとうにヨーロッパに行ってきた人が、ヨーロッパを舞台にしたまんがを描き始めたわけですからね。かつて存在しなかった出来事ですよ。なんか「大泉サロン」の人たちが描くヨーロッパスタイルの背景がわかった気がします。

竹宮●いえいえ。ふふふ(笑)そんなものでしょうか。

※3 女性の鉄道ファンの俗称。鉄子とも。

※4 正しくは『トーマス・クックヨーロッパ鉄道時刻表』。イギリスの旅行代理店、トーマスクック社が1873年より発行している(1883年から月刊)、ヨーロッパ全体の鉄道と船のダイヤをコンパクトにまとめた時刻表。日本では年2回、株式会社地球の歩き方社より発刊されている。

■状況を変える戦略のこと
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荒俣●「大泉サロン」の楽しさが、とてもよく分かりました。そこで、いよいよ作品の話に入りましょう。一番最初にeBook Japanでリリースされたのは、『風と木の詩』なんですけど、あれは壁を破るタイプの作品でしたね。

竹宮●はい。

荒俣●今でもときおり聞くのですが、「あれを当時の出版社が出版したなんて信じられない」という声があります。前から思っていたんですけど、出版社があれを自発的に出すなんて言わなかったでしょうから、どうやって説得したかですね、問題は。

竹宮●あはは(笑)。やっぱり、私にとっては、載せるのが難しい作品ということは、初めからわかっていて描いたんです。

荒俣●それはリスクが大きいやり方ですね。

竹宮●たとえば、冒頭のシーンですね、男の子と男の子のベットシーンですよね。それから始まるのだけども、それを外すんだったら、連載をやらないって決心していました。

荒俣●作品と心中する覚悟?

竹宮●だって、あのシーンを皮切りにはじめなければ、物語の意味が通じなくなってしまうでしょ。ただの学園ものになってしまいます。
荒俣 そうですけどね。

竹宮●絶対に通すんだって思って、それが説得できないくらいだったら、連載していても途中で切られるからと、思っていたんですね。

荒俣●そこまで考えたわけですか。

竹宮●だから、通すための方法を、いろんな編集者と関わったときに、実際に説得してみたり、実験してみたりしておいたんです。

荒俣●実験していたといいますと?

竹宮●「りぼんコミック」(※5)の編集長だった人にお会いしたことあるんですけどね。「りぼんコミック」は当時、集英社の中では特殊な雑誌でしたから。かつての「プチフラワー」(※6)みたいに、ちょっと変わった本だったので、まずはそこに掛け合ってみよう、ということにするわけですよ。

荒俣●はいはい。

竹宮●それで、「りぼんコミック」は、ちょっとその気を出したんですけれども、残念なことに急に(雑誌が)潰れてしまったんですよ(笑)。

荒俣●あっ、そうなんですか。

竹宮●その後に編集さんとお会いしたときに、「状況によっては集英社の本だったかもしれないのにねぇ」みたいなことを言われまして。

荒俣●状況によって、というのは、ずいぶん他力本願ですけどね。

竹宮●ええ、でもね、そのあと集英社でも『絶愛』(尾崎南の代表作。Boys Loveが主題。)とか連載されたじゃないですか?

荒俣●覚えていますよ。「マーガレット」(集英社)でセックス・アンド・バイオレンス、もうドキドキしたこと、覚えていますけど。

竹宮●みなさん、そういう記憶があるみたいですね。

荒俣●そうすると、やっぱり、ああいう作品が出せるようになったのは、それこそ状況が変わったからですか。

竹宮●そういうことなんです。やりたいことができるようになるには、状況を整えなきゃダメなんだってことを、まっすぐ言ってくれた編集者がいたんですね。その人は、状況の変え方を教えてくれました。ただ、断られ続けるだけじゃなくて、本当に連載したいのなら、その雑誌でトップを取れ、と。

荒俣●つまり、人気作家になれ、と。

竹宮●アンケートでトップを取ったら、説得力が出る、と。「発言権を高めなければ、それは無理だって」と。

荒俣●それは確かにそうですね。

竹宮●でも、「絶対に無理だと思う」って言われたんですよ。

荒俣●描きたい作品は、えてして、出してもらえないからね。

竹宮●はい。で、「なるほど、すごくわかりやすく言ってくれてありがとうございます」って感じです。だったら、『風と木の詩』を連載する前に、1位が取れる連載を描かなきゃいけない。

荒俣●はい。

竹宮●そのとき、相談相手によくなってくれたのが、「大泉サロン」を始めた増山法恵さんなんですけれども、増山さんは私にとっても萩尾さんにとっても、ブレーンみたいな存在になっていたんです。なんていうんでしょうね。どうすれば、1位が取れる連載ができるかということで、話し合った結果、じゃ、『ファラオの墓』っていう作品を始めようとなりました。

荒俣●『ファラオの墓』ですか。

竹宮●えぇ、要するに大昔からある貴種流離譚(※7)ていうのは、どこにでもある話で、絶対に誰もが夢中になるものだから、それでいこう、という話になって(笑)。

荒俣●1位狙いに絞ったわけですね。

竹宮●でも、政争ものなんてやったことないわけですよ。やったことないから、そういった資料をいろいろ探そうってことで、徳川家康も読み(笑)、(歌舞伎の)勧進帳(かんじんちょう)も見たりですね…。

荒俣●あぁ、だからその辺がおもしろいんだな。

竹宮●それで、ついには戦いのシーンが来る。戦いのシーンがでてくるまんがを読んでいれば良かったんですけど、読んでなかったから、知らないわけですよね。

荒俣●どうしましたか?

竹宮●要するに国と国とが戦うときの作戦が、私にはわからない!みたいな話をしていたら、編集者の方から、「その気があったら脚本家を紹介しましょうか」ということで。それで、脚本家さんを紹介してもらいました。考えていたアイデアが、実際に成立し得るかっていうことだけ、相談させてもらうという形で。

荒俣●めちゃくちゃではない保証をしてもらったのですね。

竹宮●ちょっと話をしたら、いろんなアイデアを出してくれたんですよ。

荒俣●そうですか。

竹宮●たとえば平家物語の中にこういうのがあるよって、そういうこといろいろ言ってくれる人だったので、それを使ってドラマを作っていきました。

荒俣●いい人がいましたね。

竹宮●はい。週刊誌だったんで、方針変更がしやすいっていうのもありました。週刊誌はそこがすごくいいところですよね。

荒俣●そういう便利さがあるんですね。

竹宮●読者の反応を見て、変えられますものね。

荒俣●融通(ゆうづう)が利くんだ。

竹宮●これじゃ、ダメなんだ、じゃぁ、こっちから行こうかみたいなことができるんですよ。私は、まんがを描き始めた頃から、週刊誌に自分の作品を最初から載せるつもりでいましたから。高校生のときに描いていたものが、すべて15ページなんですよ。あの頃の週刊誌は(1話)15ページだったんです。(だから、)15ページごとに引きがくる描き方をずっと練習してたんです。

荒俣●最初からそんなことまで考えていたなんて、さすがだ。

竹宮●週刊誌向きなタイプだったので(笑)、その線でなんとか軌道に乗せようと考えていたんです。それでも、連載の最初に、やっぱり、自分らしさみたいなのを出さなければ、最後まで描き続けられない、とも思っていました。だから、『ファラオの墓』でもキャラクター設定とかに、自分らしさを出したんです。

荒俣●なるほど。

竹宮●少年2人が、決裂する話みたいな部分は崩さなかったんですけれども、それを作り始めたら、今度は読者にそれを理解してもらうために、すごくいろんな努力をしなきゃいけなくなってしまい…。

荒俣●ふん、ふん。

竹宮●最初の頃は、15本ぐらい連載物があるとしたら、12〜13位くらいをウロウロするみたいな感じでした。

荒俣●そうなんですか。

竹宮●はい。全然、人気がとれないんです。これで、最後まで行く間に1位取れるのか?みたいな気分になりました。

荒俣●ううん。

竹宮●でも、私は割とスロースターターな方で、話をきちんと詰めていくと、読者の反応が良くなってくるタイプだっていう気もあって。

荒俣●長い目で見たわけですね。

竹宮●それも、やっているうちにわかってきて、努力する意味もわかってきたんです。

荒俣●そこが重要なんだ。

竹宮●それで、話が詰んでいくおもしろさみたいなことに目覚めてしまって…。

荒俣●話が成長し始める感じですね。

竹宮●連載をはじめてから、熱心にいろんな資料からネタを引っ張り込んで、話を作っていくことをし始めたんですよね。そうすると、最初はどうでもいいキャラだったものが、すごくいいキャラクターになってくれたりして。

荒俣●ありますね、そういうことが。話が独りでに動き出してくるんですよ。

竹宮●脇役だったのが、重要な役目を担う人になっていったりみたいなことが、いっぱい出てきました。

荒俣●今のお話を窺(うかが)っていると、『風と木の詩』にも重なってきます。もう、いたるところ発展する。あの、美少年の裸も、ますます眩(まぶ)しくなる。

竹宮●そんなにいっぱい出ていますか?

荒俣●でも、一番ショックだったのは、馬の上でハグするシーンがあって、あれ、ちょっと、目の玉が飛び出ましたね。

竹宮●あはは(笑)。そうですか。

荒俣●あんなに裸が出るまんがは、比率で言えば、あの頃、断トツではなかったですか?

竹宮●いやいや、『ファラオの墓』を思い出してくださいな。じつは、あの作品って、全部裸じゃないですか。

荒俣●あ、そうか!

竹宮●ですから、『ファラオの墓』を先に出したことが生きてくるんですよ。古代エジプトの話なんで、裸でも説明がつくんです。裸って言っても、ほんとに腰布くらいしかつけていないような状態で、女の人も胸出している状態で出てくるんですけど、古代だからしかたがない(笑)。

荒俣●そうか、やられたなぁ(笑)。アレで、裸に慣れさせたんですね。

竹宮●はい。だから、あの、『風と木の詩』の時はすでに…。

荒俣●状況が変わっている、と。すごい戦略だ。あぁ、なるほどね。

竹宮●戦略ではありましたけど、自分にとっては、ヌードっていうものは、とても綺麗だと思えるんです。一番人間の形とか、動きとかが、はっきりわかるのは、ヌードでしょう?

荒俣●そうですね、まったく。

竹宮●その方が、気持ちも表れやすいし、いいんだみたいなところがすごくあってですね。

荒俣●だから、遠回り名戦略もやり遂げることが出来たわけだ。

竹宮●古代エジプトの話を描いたのが、すごく良かったですね。読者の目を慣らすところがあってですね。

荒俣●いや、もう、竹宮さんの勝ちです(笑)。

竹宮●けれども、それを描きたいんだ、そういう肢体(したい)を描きたいんだってのが、まずあったわけですね。それに慣れてもらうために、『ファラオの墓』をやったのですが、じつは、その頃、『ファラオの墓』が中国で海賊版も出てしまいまして。

荒俣●そうですか。海賊版って……。

竹宮●その海賊版がですね、みんな、女性は黒いブラ(ジャー)をしている。私が描いたんじゃなくて、ですよ。向こうで出した人が、まずいと思って、勝手に黒いブラ(ジャー)を描き入れたんです。

荒俣●じゃ、モザイク入りの『ファラオの墓』があるんですか。

竹宮●はい(笑)。で、それをまたファンの人が中国旅行へ行って、買ってきてくれたりして。

荒俣●すごい。モザイク入りバージョンを一目見てみたい。

竹宮●今、京都精華大学の研究室に置いてあります。

荒俣●あぁ、そうですか。買いたいくらいのレア・アイテムじゃないですか。

竹宮●そういうおかしいことが、いっぱいあったんですよ。でも、おかげで『ファラオの墓』は、最終回から2回目くらいのところで、とうとう2位になりました。結局1位にはならなかったんですけど、2位までは行ったわけです。

荒俣●すばらしいですよ。2位ですから。「大泉サロン」の勝利ですね。

竹宮●ははは(笑)

今回のインタビューで、あらためて竹宮先生の根気あるまんが革新の舞台裏に関心を抱いた。「大泉サロン」もそうだし、『ファラオの墓』もそうだ。すべてが、『風と木の詩』という状況を変える作品の登場に向けて積み上げられていったプロセスであることが実感できた。

それと同時に、「大泉サロン」のメンバー全員がそろって個性的な作品を描くまんが家として世に出た理由も理解できた。この優秀で戦略ある人たちが一斉に作品を発表し始めたとき、まんが界に存在したベルリンの壁のようなバリアも、ひとつずつ破壊されていくしかなかったのだ。

※5 集英社の少女まんが雑誌「りぼん」の姉妹誌。1968年創刊、1971年廃刊。

※6 小学館の少女マンガ雑誌。『風と木の詩』(竹宮惠子「週刊少女コミック」からの移籍)、『河よりも長くゆるやかに』(吉田秋生)、『残酷な神が支配する』(萩尾望都)、『ファンシィダンス』(岡野玲子)など、多くの衝撃作が連載されていた雑誌として有名。1980年創刊、2002年に休刊。

※7 きしゅりゅうりたん。民間伝承や、物語のプロトタイプのひとつ。本来高貴な生まれの子女が、陰謀や事故で陥った不幸な境遇で育ちながら、旅や冒険をして、活躍する話。

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