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【トークショー:波津彬子×佐川俊彦×竹宮惠子】2018年05月20日(68歳)

「『JUNE』からやおいまで」
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日時:2018年05月20日(日)14:15−16:00
会場:京都国際ミュージアム多目的映像ホール
出演:波津彬子/マンガ家(姉は花郁悠紀子)
   佐川俊彦/『JUNE』元編集長・京都精華大学マンガ学部准教授
   竹宮惠子/マンガ家・京都精華大学マンガ学部教授
司会・構成:東園子/京都産業大学現代社会学部准教授
担当編集:倉持佳代子


 最初に、このトークショーの趣旨を説明させていただきます。現在「ボーイズラブ」や「BL」と呼ばれている、女性向けに男同士の恋愛的な関係を描いた作品は、日本のマンガ文化の大きな一画を占めています。このジャンルの成立には 1970年代に起きた三つのことが大きな影響を与えたと考えられます。
一つ目は、当時の少女マンガ誌に、竹宮惠子先生の『風と木の詩』など「少年愛」と呼ばれたマンガが多数掲載されたことです。
二つ目は、佐川俊彦先生が立ち上げられた『JUNE』など専門の雑誌が出版されたことです。
三つ目は、アマチュアによるマンガ同人誌がたくさん作られて、波津彬子先生のように商業出版にも描き手を供給したことがあります。
今日のトークショーでは、このそれぞれに関わられたお三方に貴重なお話を伺うことで、このジャンルが確立していく時代の状況に迫っていきたいと思います。
なお、少年愛マンガが登場する過程や背景については、例えば竹宮先生が書かれた『少年の名はジルベール』や、竹宮先生と佐川先生のインタビューも掲載された石田美紀さんの『密やかな教育―〈やおい・ボーイズラブ〉前史』という本などで明らかにされているので、今日はその次の時代、大体1970年代後半から1980年代を扱いたいと思います。
このトークショーのタイトルにある『JUNE』と「やおい」という言葉は、既にご存じの方も多いかと思いますが、「BL」という言葉が広まる前に、このジャンルを指す言葉として使われていたものです。『JUNE』とは、先ほども触れましたが、1978年に日本で初めて創刊された、今でいうBLの専門誌のタイトルです。最初は『comic Jun』という誌名だったのが『Comic June』に変更され、ジャンルの代名詞的存在になっていきました。今でも、昔の雑誌とはかなり雰囲気が変わっていますが、「JUNE」というブランド自体は残っています。一方、「やおい」とはマンガ同人誌の世界から出てきた言葉で、物語の「山なし・落ちなし・意味なし」の頭文字を取ったものです。この言葉を広めたのは、1979年に波津先生がお仲間と作られた『らっぽりやおい特集号』という同人誌でした。
これから、その『JUNE』から「やおい」に至る過程について先生方にお話を伺っていきますので、よろしくお願いいたします。
それでは、まず『JUNE』の話から始めたいと思います。『JUNE』が創刊された1978年は、その2年前から竹宮先生の『風と木の詩』の連載が始まるなど、少女マンガの世界で少年愛マンガが盛り上がっていた時期と言っていいでしょう。『JUNE』は、佐川先生が当時アルバイトをされていたサン出版という出版社で、少年愛マンガのファンを対象にした雑誌の企画を出されて、創刊されることになりました。
佐川先生、そのような雑誌を企画されたということは、現在少年愛マンガと呼ばれているものが当時既に一つのジャンルになっているという認識だったのでしょうか? それとも、むしろ雑誌を作ることで一つのジャンルにしていこうといった意識で作られていたのでしょうか?

佐川 ジャンルということまでは全然考えてなくて。少女マンガを男も読むようになった、ちょうどそのはしりの時代だったのですけれども、とにかく竹宮先生や萩尾望都先生、山岸凉子先生、大島弓子先生、青池保子先生、木原敏江先生とか少女マンガの一線の方々がみんな、なぜか男同士を描いているのが不思議で、何でなんだろうと。当時はSFなどマニアックなものが広がり出していて、それが面白いというのがまず一つ。それと、僕は先輩から紹介されて劇画誌『劇画ジャンプ』の編集にバイトで入っていたのですけど、雑誌もちょうど売れる時代で右肩上がりだったので、アルバイトも企画書を書けというのがあって。そこで「これはいけるな」と考えたのが、少女マンガのその辺をまとめたやつです。会社には「女の子のためのエロ雑誌」という形で説得をして、でも実際には僕がすごく影響を受けた『COM』をやりたかったというのがありました。『COM』に石森章太郎先生の「ジュン」が載っていたので、誌名は純粋純愛の「純」とか、潤いの「潤」とかいろいろな意味を込めて。他にもいっぱいタイトルを出したのですけど。要するに、『COM』をやりたい、『COM』の女の子版を作りたいというのと、会社でエロ雑誌を作るというのが合体した結果が『JUNE』になりました。

 『COM』というのは、手塚治虫が立ち上げ、竹宮先生も投稿されていたマンガ雑誌ですよね。

佐川 創刊号から買っていて、竹宮先生も萩尾先生も載っていたので、お二人の名前も知っていて。

 そうなんですね。ちなみに、『JUNE』を創刊するときに参考にした雑誌があったと伺ったのですが、それは何ですか?

佐川 『JUNE』を出すとなったときに、うちの会社の社長は編集者だったので、ものすごく詳しいというか介入してきて、もう見本誌が決められていて。当時ライバル会社の一つだったみのり書房の『OUT』、これなら勝てるであろうという。あっちが『OUT』だったら、サン出版でも何かやろうということです。『JUNE』の薄さとか、紙がいろいろ変わっていたり2色のページがあったりするのも、実は『OUT』を見本にしているので、単純にその形になったということで 。実はそういう事情がありました。

 『OUT』というのは、アニメファンの人など、今でいうオタク向けの雑誌の初期のものですね。 『JUNE』の創刊号の表紙を描かれたのは竹宮先生です。中にマンガも描かれていたり、いろいろな形で関わっていらっしゃいます。その当時、竹宮先生は既に第一線で活躍されていて、こういう小さな出版社の、まだ形になっていない雑誌のお仕事を引き受けるのはちょっと勇気の要ることだったのではないかと思うのですが、なぜ引き受けようと思われたのでしょうか?

竹宮 それはやはり『風と木の詩』という真っ向からアウェイな感じのものを少女誌で連載を始めていて、その反応がまだすごく怖い、どんなふうになっていくか分からないという、数々あるハードルを越えなければいけない状況にあったわけですね。その状態で『OUT』などの表紙を引き受けたりするのも、どちらかというと、与えてくれる場があればマイナーなところでも、私たちは「マニア雑誌」と呼んでいましたけど、『OUT』とかでも表紙を描かせてくれるなら出ていくということをしていたわけです。
そこに『JUNE』の話があって、やはり『風と木の詩』の援護射撃になるだろうということが一番で。少女向け雑誌と『JUNE』というのがどうやって結び付くかは私には分からなかったけれど、そういうような発想でやっていく新しい雑誌というのを、自分が参加することで自分の思う方向に持っていけたらいいなというような野心もあってやらせていただいたということです。

佐川 当時は本当に大手とマイナーの差がものすごく大きくて、大手のマンガ家さんがマイナーなところに描いてくれるのはあり得なかったんです。大体『少年ジャンプ』からして一流のマンガ家さんが描いてくれなくて、それで新人を育てるという手段で始めたぐらい、集英社ですらまだ大変な時代だったので。小学館・講談社とか大手がとにかく強いころだったので、描いていただけるのは奇跡のようなことだったのです。 ただ、僕には根拠というか自信がありました。
その前に文房具屋さんでバイトをしていたのですが、当時はコピーがまだまだ貴重な時代で、コピー機を置いてあるところが限られていて、値段も相当高かったのです。だからお客さんには触らせないで、店員がやっていました。
そこに女性がやってきて、「コピーお願いします」と渡されたのを見たら、『風と木の詩』の下描きかネームだったのですよ。竹宮先生のお顔は小学館の雑誌とかに出ていたので、先生ではないなと思ったので、「アシスタントの方ですか?」と聞いたら、ちょっと考えて「友人です」と答えたんですよ。それが竹宮先生のプロデュース・ディレクターだった増山法恵さんだったのです。
そういう出会いがあったので、竹宮先生は絶対断らないだろう、こんなすごい伏線があるのだから絶対大丈夫なはずだと。

竹宮 それが原因だったかは分からないですけど(笑)、私にとってはとにかく『風と木の詩』の援護射撃になるのではないかという考えがかすめたときに、もうやるしかないと思いました。さらに過激なものがやれる場所ではないですか。そういう意味で、『風と木の詩』がちょっといい子に見えるのではないかと思ったという(笑)。

 『JUNE』で『風と木の詩』より過激なものを出すことで、相対的にそう見えるのではないかということですね(笑)。

竹宮 そうだったと思います。

 先ほど、佐川先生は『COM』をやりたくて『JUNE』を作ったとお話しされていましたが、『COM』の愛読者だった竹宮先生は、『JUNE』から『COM』的なものを感じられたりはしましたか?

竹宮 『COM』的とは思いませんでした。私にとって『COM』というのはマンガ予備校だったので。新人たちが登竜門を目指して描いていくというところをとてもクローズアップして考えていたので、『JUNE』はそういう舞台にはまだなっていなかったですよね。少しはありましたけど。

佐川 はい。ただ、新人を育てたいというのはすごくあって、それは当たり前だと思っていました。エッセイや評論、青年マンガ、実験マンガ、少女マンガ、何でも『COM』は載っていた。何でもありと新人をというところで、自分は『COM』を。

竹宮 そうですね。新しいニュースというか、そういうものを紹介するという意味でも『COM』も同じようにやっていましたし、記事ページはすごく多かったですね。そういうものが『JUNE』にもあって。いわゆるマンガの商業雑誌というのは情報部分がほとんど入っていませんから、そういうものをやっていける『JUNE』は魅力がありました。

佐川 もう一つ『ガロ』というのもあるのですけど、『ガロ』はちょっと年上の印象と、貧乏というイメージがあったので、貧乏はちょっと嫌だなという。

竹宮 貧乏は...女の子は嫌いですよね(笑)。

 今おっしゃっていただいたように、『JUNE』は少年愛的なものの総合情報誌という側面もありましたよね。波津先生は『JUNE』は読んでらっしゃいましたか?

波津 もちろん創刊のときから話題で。というか、出たころはもうアシスタントのバイトもしていたので、そういう職場で話題にはなっていました。

 どういうふうに話題になっていたのですか?

波津 「何? この本」、そういう感じ(笑)。最初は別に少年愛がテーマではなくて、いろいろな変わったマンガとか変わった情報が載っている本、要するにサブカルチャーの本だったのです。竹宮先生が少年愛のパートをやっていらしたけど、他の先生は必ずそうでもなかったので、一般商業誌には載らないような不思議なマンガが多かった感じですね。

佐川 そうです。最初のころはけっこう描き手の方の抵抗が大きくて、描く方が非常に少なかったし、それでロックやら映画やら、とにかくあらゆる情報を詰め込まないと男同士の雑誌が成り立たない。

竹宮 サン出版だというだけでもみんな引いていました(笑)。

佐川 サン出版はエロの総合出版社。SM雑誌とゲイ雑誌の『さぶ』、官能小説誌とかグラビア誌、一通り紙のエロはやる感じの出版社で有名だったので。それで途中でマガジン・マガジンという名前の子会社を。そっちのほうでエロの度合いが少ないものはやるということで、パズル雑誌とか釣り雑誌とか作って、『JUNE』もマガジン・マガジン名義になったという。

 では、最初は「『JUNE』=少年愛専門雑誌」といったイメージはなかったんですね。読者の人にとっても。

波津 そうですね。その前に竹宮先生が『風と木の詩』を始められていたので、竹宮先生がいよいよこのジャンルを商業誌でという、援護射撃とおっしゃっていましたけど、プラスアルファが読める雑誌みたいな感じではあったのです。他はそんなに描いてらっしゃいませんでしたよね、男同士系の話は。

竹宮 そうですね、他の先生は。

波津 そこまで描いてらっしゃらないのですよ、最初の『Jun』時代の『JUNE』というのは。他は映画の情報とか。

竹宮 そう。そういうものの方が割合が大きい。

波津 ロックの情報とか、そういうのがメインだった。

佐川 いや、本当に描き手が少ないので、新人を育てるのが結構急務だったというか。

竹宮 何か奴隷のサンダルみたいなマンガが載っていました。

佐川 創刊号の「愛奴」という作品で、扉のロゴのデザインがビミョーで「どあい」と読まれてしまったのですけど(笑)。あれは男のマンガ家の作品です。

波津 男性だったのですか。

佐川 そう、男性なのです。社長がちょっとエロ度が足りないから入れろということで急遽描いてもらったのですけど、やはり男の人が描くと微妙に違うので、女性でなければ駄目だなということで。

波津 だから出だしは結構混沌としていましたよね。今、皆さんが思うほどすっきりコンセプトがあった感じではないです。

佐川 ただ、美少年、美しいものでまとめようというのは一応ありましたけど。

 それでは、雑誌が1号、2号、3号と出ていく中で、だんだんカラーが出来上がっていき、読者の人も「こういう雑誌なのだな」と認識していった感じなのでしょうか?

佐川 そうですね。

波津 竹宮先生のおかげだと思うのですけど、ここなら描けるとみんな思い始めた。

 ああ、竹宮先生の『風と木の詩』のようなものを、ここだったら載せてくれるのではないか、ここだったら読めるのではないかという。

波津 「さすがに『マーガレット』とかでは描けないけど、『JUNE』ならページも短そうだし、できるのでは」と思った先生はいるのではないかなと思いますね。

 なるほど。竹宮先生が表紙を描かれたのは、『JUNE』にとってすごく大きな意味があることだったのですね。

佐川 大きかったです。そうでなかったらあんなに広がらなかった。本当に描き手の抵抗も大きくて、読者からの非難も大きかった。とにかく1冊丸ごとはやり過ぎで行き過ぎだと。描き手の人たちからも「これはちょっとひどい」という声で。とにかく描き手がいなかったので、最初に竹宮先生が表紙を描いていたというのは本当に大きくて。『JUNE』のカセットブックの場合でも、最初に声優の三ツ矢雄二さんが別名義ですが脚本も書き、主演してくださったおかげで他の声優さんも従わざるを得なくなった、それに近いものがあると思うので、最初は大事なのです。

竹宮 私は表紙絵で少年がずっと描けることが一番魅力でしたね。少女誌では描けない。

佐川 社長が表紙にすごく力を入れるポリシーで、表紙だけ原稿料が良かったのですよ。それも幸いして。経営者ですからケチですけど、表紙に関しては他より高く払っていたのです。

 竹宮先生のような一流の方に頼めたということですね。

波津 あのラインナップがすごいではないですか。木原敏江先生、大島弓子先生、まつざきあけみ先生ですよ。

 執筆陣がすごく豪華なんですよね。

波津 創刊号であのメンツという。青池保子先生もいるし。

佐川 そうなのです。みんなだまして描いていただいて(笑)。

波津 出版界は人脈が大事ですよ。

 佐川先生がいろいろな人脈を駆使して『JUNE』に執筆者を引っ張ってこられた詳細については『密かな教育』などに書かれています。 波津先生は『JUNE』を読まれていたそうですけども、デビューされたのは『ALLAN』の2号目にあたる1981年1月号ですよね。『ALLAN』は1980年に創刊された、『JUNE』のライバル雑誌というか、少年愛マンガのファンをターゲットにしたような雑誌です。 波津先生、どういう経緯で『ALLAN』からデビューされたのでしょうか?

波津 『JUNE』が一度休刊するのですよね。8冊で休刊するんです。ライバル誌だったというのは今初めて聞いたのですけど、『OUT』のみのり書房が読者に「どんな本を読みたいの?」とアンケートを取ったら、「『JUNE』みたいな本が読みたい」という結果になったそうです。実は結構ファンがいたのだ、みたいな。みのり書房は、「では『JUNE』みたいな本を作ろうではないか」ということになって、『OUT』を模して『JUNE』ができたのに、『JUNE』を模して『ALLAN』ができるという。
亡くなられたのですけど、久掛彦見先生というマンガ家さんがいらっしゃいました。そのころ同人誌をすごく出していて有名な方で、同人誌でも面白い企画をどんどん出されている方でした。みのり書房の人が少女マンガ方面に弱かったのか、久掛先生が『ALLAN』の創刊、立ち上げのときに編集に入るのですよ。
佐川さんは有名な先生を連れてきたのですけど、久掛先生は同人界である程度描ける人、うまい人を引っ張ってくるという方法を取って、同人誌で有名な人たちのマンガをばーっと載せた。私も同人の関係で声を掛けていただいたのです。
『ALLAN』は久掛先生が編集を退いた後、編集部でマンガに興味がある人がいなくなったのか、本当にサブカル雑誌になって、そのうち『JUNE』が復刊するので役目を終えたようになくなってしまうのですけど(笑)。だから『JUNE』のつなぎ雑誌みたいな感じで。

佐川 でも、すみ分けはした方がいいなと思っていたので、その辺で違うようにしようと。向こうは南原四郎さんという編集だったと思うのですけど、ちょっと『ユリイカ』っぽい感じで、本当に耽美的なものをやられたりしたので。あと、まつざきあけみさんを向こうがどんどん使ってらっしゃったので、では、まつざきさんはそっちでしょうがないかなという感じで、すみ分けを図っていました。

 『ALLAN』と『JUNE』の読者は重なっていたのでしょうか?

佐川 とにかく男同士のものが少ない時代だったので、みんな三島由紀夫や、いろいろ幅広く読んでいたぐらいなので、両方読んでいたのだと思います。

 波津先生の周りではどんな感じでしたか?

波津 両方読んでいたし、重なっている時期はそんなに長くないですよね。『ALLAN』と『JUNE』が両方出ていた時期は。

佐川 その辺の記憶はあまり定かではありません。

波津 そんなに長くないし、『JUNE』が復刊したころ『ALLAN』は完全にマンガから離れていたので。だから、大体同じ読者だったと思いますよ。

 ちなみに、『ALLAN』はその後『月光』といった雑誌に引き継がれて、今でいう腐女子的な人の読者投稿が掲載されていました。竹宮先生は『JUNE』でずっと描かれていた中で、『ALLAN』は意識されていましたか?

竹宮 意識していたというふうには思っていませんけれども、違う部分だなという。私が割と幼めの少年たちを描いているのだけれども、『ALLAN』の方はもう少しリアル寄りというのですか、ちょっと青年の物語が多いみたいな、そういう気がしていました。そういう、ジャンルの中で小さな分け方でのすみ分けはあったのではないかなと思います。

 少年派と青年派みたいな感じですか?

竹宮 そうですね。大体のことをいえばそんな感じでした。

 竹宮先生が『JUNE』にいろいろな原稿を描かれていた中で重要なものの一つが、1982年から10年以上も続いた「ケーコタンのお絵描き教室」というコーナーです。これは、最初は竹宮先生がマンガの描き方を指南するイラストコラムのようなページでしたが、1985年からスタイルが変わり、読者が投稿したマンガを竹宮先生が批評するコーナーになりました。
そのリニューアルされた最初の回には、現在マンガ家として活躍されている鳩山郁子先生の投稿作品が取り上げられ、横に竹宮先生のコメントがついています。「お絵描き教室」出身のプロ作家は他にもたくさんいまして、例えばマンガ家の西炯子先生も常連投稿者の一人でした。

佐川 まだ高校生でした。

 今のペンネームと字が違っているのですが、ずっと投稿されています。

佐川 ちゃんと毎号送ってくる。隔月ですけども、ほぼ毎号送ってくれる、そういう熱心な人だったので。

 この「お絵描き教室」の前から『JUNE』には編集者が投稿作品を批評するコーナーが存在していたんですが、佐川先生、「お絵描き教室」はどういう経緯で企画されたのでしょうか?

佐川 『COM』も新人募集に力を入れていましたけど、『JUNE』は賞金が出せないという弱みがありまして。とにかくお金が払えないというのがあったのと、それでも送ってくれる人はいたのですけど、あまりお上手ではないので、竹宮先生に読んでいただくほどの、あれではちょっと失礼だという感じだったので、それでたぶんスタートできなかった。
雑誌が定着してくるうちに、だんだん上手な人、ユニークな人が送ってくるようになったので、西さんや鳩山さんみたいな作品なら、これはお見せできるかなという感じで。お忙しい中見てもらうのは大変なので、無理やりお願いして。
敷居を低くするために、難しいマンガ講座とかではなくて、「ケーコたんのお絵描き教室」と。なるべく敷居を低くして、賞金はないけど気軽に投稿してくれるように始めました。

 投稿作品の底上げのため、最初は竹宮先生にイラストコラムでマンガの描き方をご指南いただいて、レベルが上がってきたら、いよいよ竹宮先生ご自身に見ていただいたということでしょうか?

佐川 そうです。やはり編集者では限界があり、マンガ家の人にやっていただくのが一番なので、そこでお忙しい竹宮先生にやっていただいたという。

 竹宮先生、お忙しい中で読者の投稿作品を読むのは大変なことだと思うのですけれども、読者の投稿作品を批評するのを引き受けたのはなぜですか?

竹宮 批評するのは他の一般誌でもマンガ賞とかがあって審査員を引き受ければやっていたことですけど、『JUNE』の投稿作の場合はそんなにページが多くないのですぐ読めるのだけど、どこからどう攻めたらいいのかという感じのものが多くて、どちらかというと取り上げる作品を決めるのが大変でした。
あまりきついことを言うとその後応募してくれないですし、そういったことも考えながらやっていました。それと、私はマンガの描き方を教えたりするのが好きだったのかなと思うのですね。毎月そのページを引き受けていて、何となくストレス解消の感じで書いていましたので。

佐川 アシスタントを育てるのもうまい、アシスタントからプロがいっぱい出ていますし。

竹宮 そうですね。アシスタントに教えるのと大きく違うのは、私がいいと思うことをアシスタントに教えていいわけですね。手伝ってもらうわけですから。だけどそうでない、その人が何をやりたいのかを読んで教えなくてはいけないのは、やはり結構大変ですね。

佐川 教育者として向いていたのでしょうね。竹宮先生は大学が徳島大学教育学部で、中退されていますけども、遠回りして京都精華大学の先生になって、おまけに学部長になって、そして学長に。やはりこれはちょっと言っておかないと(笑)。お飾りでなっていると思っている方もいらっしゃるかもしれないけど、ガチで学長をやられていたので、本当にそこはすごいなというところです。この間、学長の任期が終わってホッとされて。

竹宮 ほんっとーにホッとしています(笑)。

 「お絵描き教室」の竹宮先生のコメントを拝読していると結構辛口だなと思ったんですが、それは何か意図があってされたのでしょうか?

竹宮 相手にもよるのですよ。すごく褒めることが効果的な人とそうでない人といて、きつく言う方がいい人は言いました。西さんなんかはそうです。西炯子さんにはとても辛口で批評しましたけど、打たれ強いというか、どんどん良くなるので楽しかったです。

 厳しいコメントをいただいて、それで次へ次へと熱心に投稿されて。

竹宮 「負けるもんか」になるという人だったと思います。

 大学の学生と違って投稿者と直接お話しされるわけではないですが、「この人は打たれ強い人だな」とか「この人は褒めた方がいいかな」というのをマンガだけで判断されたんですか?

竹宮 マンガだけで判断しますね。この人はそういう人だと思って言うと、「当たり」という感じになります。

 投稿作品から作者の人間性みたいなものを汲み取っていらしたんですね。

竹宮 それは普通だと思っていましたので。作品に描いてある内容からその人となりが読めるものだとずっと思っていました。波津先生、どうですか? そういうところは。

佐川 波津先生も過去に京都精華大学で教えていたのですけれども、韓国のファンで精華大に来れば波津先生に教えてもらえると思って来たら、すれ違いで辞められていてがっかりしたという人がいました。

波津 私は非常勤だったのであまりちゃんと教えていないというか、学部になる前に逃げたというか(笑)。

竹宮 ぜひやってほしかった。

波津 いえいえ。

佐川 逆に言うと、それだけ教えるのは大変なのですね。

波津 大変です。竹宮先生にだまされたのです(笑)。ちょっと京都に来て、ちょっとその時間1時間ぐらいやってくれればと、そんなわけにはいかないみたいな。私は技術的な授業だったので。ただ、やはり絵とかお話には人となりは出ます。あと常連さんだったらなおさら分かりますよね。その人の段階が読めれば、大体人となりも分かるので。気弱さとかが絵に出ますし、「この子結構自信があるな」というのも絵に出ますから、怖いですね。

 では、そういうのを読み取って、それに合わせてコメントされていたんですね。

竹宮 それもありますけど、誌面が少ないですから、やはり伝えるべきことは伝えておかないと無駄になってしまうので。やはりここは『JUNE』という舞台だから、あまりお世辞を言ったりはしない方がいいだろうというのはありました。

 『JUNE』のマンガに必要なものという本質を突くことを短いコメントに込めるようにされていたんですね。

波津 まだ商業誌が王道ばかりの時代ですから、『JUNE』なら好きなものが描けると勘違いして来る人がいたと思うのです。だから竹宮先生ぐらい厳しく門前に門番がいてくれないと、ちょっととりとめがなくなるところがあったのかなと思います。

 つまり、自分の好きなように描けばいいのではなくて、人に見せるものだという。

波津 いくらマイナー誌とはいえ商業誌だから、お金を払って皆さんが読んでくれるレベルのものは提供しなければいけないというのを、ちゃんと伝えなければいけないというところですよね。

竹宮 それと仮にもエロ雑誌なので、ベッドシーンを描かなければいけないわけです。ベッドシーンほどデッサンを要求されることはないので、そういう意味でも結構厳しく言いました。

佐川 それで処理に困って、デッサンに不自由な方々の絵もご紹介しようという感じで初期のころに作ったページが「ヒワイ画コーナー」でした。

 読者のイラストを掲載するコーナーですよね。竹宮先生は『密やかな教育』で「『JUNE』の投稿者にはいじらしいほどの表現欲があった」と語っていらっしゃいますが、投稿者たちがどういう思いでマンガを描いていたのか、もちろん人によって違うでしょうが、何か感じられることはありましたか?

竹宮 だから、デッサンができないわけですよ。描けないわけなのだけれども、その不自由な中で何とかして2人の交流というものを描きたいというのがひしひしと分かるのですけども、だから余計に「いや、気持ちは分かります。でも描けていないよ」ということは言わなければいけないのですよね。

佐川 ツッコミは必要なのです。

竹宮 はい(笑)。

 波津先生は「お絵描き教室」を読まれていましたか? 何か影響を受けたことなどありますでしょうか?

波津 たぶん私はそのころアシスタントをしていたんですけど、マンガを描くというよりはアシスタント技術の方に毎日意識が行っていたようで、読んではいましたけども、これで自分のマンガを描こうというふうにはならなかったのです。すみません(笑)。

 波津先生の周りにはマンガ家志望の方も結構いらっしゃったのかなと思うんですけど、その人たちの間で「お絵描き教室」のことが話題になっていたことはありましたか?

波津 もちろん話題にはなっていましたけど、私の周りには最終目標『JUNE』の人がいなかったので(笑)。皆さんやはり『少女コミック』とか『マーガレット』とかそっちだったので、そっちの戦略の方に皆さん頭を痛めていた感じですよね。

 先ほどの竹宮先生のお話からしても、やはり「お絵描き教室」は、マンガ一般というよりは『JUNE』のマンガを描くための教室という性格が強かったのですね。

竹宮 そうですね。ですから、ほとんどもうすぐプロというような人が応募してきて、非常に一般的なマンガを描かれていて、それはちょっと『JUNE』からデビューするのは違うのではないのという人もいましたよね。

佐川 明らかにうま過ぎる人が投稿してきたので、珍しいなと思って批評してもらって。そうしたらお礼の手紙が来てですね、実はプロの方で、迷っていて悩んでいたので、送ってみた、それで、「竹宮先生のお言葉を頂いてすごく助かりました」という食い逃げされたケースがありました。

竹宮 本当に『JUNE』からデビューするのはちょっと違うのではないのというような、一般的な意味でのちゃんと描けているマンガだったのですね。

佐川 そういう意味で『JUNE』でちょっと誤算だったのが、僕も最終的には小学館やら何やら一流の雑誌に行くための、ある意味ステップみたいな感じで『JUNE』があると思っていたのですけれども、みのり書房をはじめ各社が今度は同人誌系から作家さんを集めて作り出して、そこでそのシーンというかジャンルができてしまった。ある意味、こちらは踏み台にされていいつもりでやっていた、というところが違ったかな。
「大手は絶対出せないだろう、1冊丸ごとエロの本なんて絶対無理だろう」とやったら、同業他社はみんなやれたので、あっという間に類似誌が大量に出てしまって、しかも同人誌があったので。それから『JUNE』の作家さんも、ページが少なくて載せきれなかったので、どんどん流出して、逆にそれでジャンル、シーンができたかなと。

 マイナーからメジャーへというのを考えておられたのが、むしろマイナーと思っていたところが大きくなっていったということですね。 では佐川先生、今振り返ると『JUNE』にとって「お絵描き教室」とはどういう存在だったか、『JUNE』にもたらしたものはどういうものだったと思われますか?

佐川 そこで描き方を教えてもらって、本当にそれで新人が育って。もう一つは小説で中島梓の「小説道場」〔栗本薫名義で小説家として活躍していた中島梓が『JUNE』読者の投稿小説を批評するコーナー〕と並んで、ある意味代表作、『JUNE』の基本だったかなということで。
実はデビューが白泉社となっている方の何人かは『JUNE』デビューで。原稿料も、安いけれどちゃんと出していたので、本当は『JUNE』デビューなのですけど、大手のほうでは『JUNE』はなかったことになっている。有名な方で今も描いてらっしゃる何人かは、実は『JUNE』出身。

波津 『ALLAN』もそうですね。

佐川 なかったことにされている(笑)。

波津 『ALLAN』デビューと書いているのは私ぐらいだと思います(笑)。

竹宮 皆さん、それをなかなか書かないですよね。

佐川 編集部が嫌がるんですよ。編集部のほうで、うちでデビューという。

波津 あと皆さん上手に名前を変えるのですよ。

佐川 それもありますね。

波津 『JUNE』投稿とか『ALLAN』投稿は違う名前でやっていて、結構耽美な名前を付けているのですよ(笑)。

竹宮 超有名な人でも、やはり編集部が NO と言うからバラせないということがあります。

 有名なところでは、『JUNE』の創刊号に柴門ふみさんが「ケン吉」というペンネームで描かれているという話をよく聞きますけれども。

佐川 それは同人誌つながりで、お茶の水女子大漫研として、湯田伸子さんと柴門ふみさんを知っていたので。いしいひさいちさんとか、明らかに『JUNE』で浮いている方も描いているのは、そういうつながりで。別に柴門さんは隠しているわけではなくて、こういう名前でもやっていて、ユーモラスというか面白いマンガも描いていた方なので。
そういう、いろいろごった煮的になっている理由の一つには、竹田やよいさんもかな、僕の知っている同人誌系の人とか、高野文子さん、さべあのまさんも僕が入っていた「楽書館」という同人サークルに入っていた人で、無理やり頼んで描いてもらったという。

 今、初期の『JUNE』や『ALLAN』を見ると、宝箱のようですね。 竹宮先生は、先ほどから話題になっているように、今、京都精華大でマンガの描き方を教えていらっしゃいますけど、「お絵描き教室」の経験がいろいろな意味で今につながっているなと感じられることはありますか?

竹宮 はい。『JUNE』の「お絵描き教室」でやったことをそのままピックアップして、これは使えるのではというものを「脚本概論」の授業の中で教えたりしていましたので、私にとっては続いているものですね。

 竹宮先生は『風と木の詩』を連載する前に、「大泉サロン」と呼ばれたアパートでマンガ家の萩尾望都先生と同居されていて、才能のある若手の少女マンガ家やマンガ家志望のファンの人をよく招待されていました。波津先生のお姉さまの花郁悠紀子先生も坂田靖子先生と遊びに行かれたそうです。竹宮先生はそのときから後輩を育てるみたいな意識はおありだったのでしょうか?

竹宮 そのときはたぶん、応援してくれる人として、そういう人たちを確実なファンにしたいというところがあって、ファンレターを見てピックアップみたいなことをして、「遊びに来ませんか」と誘っているというか。お姉さんの花郁さんも、まだ高校生でした。そういう時期に「妹さんも描いているの?」みたいな感じで聞いていたような気がします(笑)。

波津 夏休みに滞在させていただいて。姉はそこで初めてアシスタント体験をするのですけれども。今思えば「そうやって育った人がいますね」ですけど、当時はファンの方をもてなすみたいな。だって自分のライバルになるのですよ。そんな簡単に育てませんよ(笑)。

 それはそうですね。波津先生だってまだお若くて、今からというときですからね。

竹宮 そういうことはまだ考えてないですね。

 でも、先ほどの『JUNE』を引き受けた話にしろ、自分が描きたいものを描ける場を作るために、自分のマンガを支援してくれる人、読者を育てるみたいな意識はおありだったのかなと感じたのですけど、いかがですか?

竹宮 そこまで大きなことを考えていたかどうかは分かりません。自分の味方を増やしたいと、ただ単にそれだけだったと思うのですけど。

佐川 当時は、同志という感じもすごく大きくて。当時はSFは少女マンガでは駄目といった、とにかくタブーが多かったので、そのうちの一つが男同士だったかなという。だから男同士をずっと描いてらっしゃるのは青池先生ぐらいで、みなさんSFだったり歴史ロマンだったり、いろいろ。男同士が全てではなくて、それもあくまで表現手段の一つみたいなところがあったのかなと。 ところが男同士が全てという人たちがものすごく増えてしまったので、ジャンルが固定化して。それ以外は描きたくないという。

竹宮 時代が始まるのですよね。

佐川 はい。

 ここで、『JUNE』や『ALLAN』の描き手を多数輩出した同人誌の話をしたいと思います。『JUNE』が創刊される3年前の1975年に、「コミケ」という略称でも知られる同人誌即売会「コミックマーケット」の1回目が開催されています。『JUNE』創刊前後の1970年代半ばから後半にかけての同人誌界隈はどういう雰囲気だったのでしょうか?

波津 イベントにまだみんな慣れてなくて。今、コミケは統制が大変ではないですか。そんなことはなく、同人誌はほぼ創作同人の時代で。ちょっとアニパロの気配はあるのですけど、やはりメインは創作同人。 同人誌をやっている人は一応マンガ家志望で、真面目にマンガを描きたい人たちで、ほぼ通販。
通販の前は肉筆同人誌というのがあって、それは会員さんの間で肉筆で原稿をとじたものを回すという。その後コピー誌になり、印刷本になったあたりでコミケが出てくるのですけども、まだ通販メインでした。
通販で大手だったのが、坂田靖子先生がやっている『ラヴリ』。『ラヴリ』というのはとても戦略的に運営されたサークルでした。まず読むだけの購読者を募って会員制にして、先にお金を取るのです。それを元に本を発行する。だから誰も損はしないシステムにして。読み手がお金を払っているから下手なものは出せないといって、とても企画を大事にして。
皆さんアマチュアなのですよ。坂田先生はもちろんデビューしていましたけど、アマチュアの作品の中でどう面白く本を作るかというのを常に模索していたという、そういう本だったので、あのころ通販の同人誌ではトップぐらいだったと思うのですけど。他も大体通販でしたよね。

 当時は今のように同人誌専門の安い印刷所もなかったので、まず資金集めからという形になったんでしょうね。

竹宮 コピー誌で会費を取って配るというようなことだったと思いますね、最初は。個人用コピー機が出てきたからそんなことになったわけで、その前は肉筆同人誌で。

佐川 竹宮先生なんかの肉筆の生原稿をとじた分厚いやつが、全国を郵便で回るという。

竹宮 途中で行方不明になってしまうのですよ。

波津 そうです。

佐川 今の宅急便みたいにスムーズでもないし、時間もすごくかかって、延々とそれを回してという、のんびりと。

竹宮 1年かかってようやく全員に回る。

波津 肉筆同人と一緒に批評ノートが回るのです。読んだ感想とか批評を書いて次に回していくという。だから皆さん本当に漫画研究会だったのですよね。

佐川 そうですね。

 プロのための修業の場みたいな感じだったんですね。

竹宮 プロとまで思ってないですよね。マンガが好きで、何とかそういうものを描きたいというだけです。

波津 まだどうやったらプロになれるかがよく分かっていない時代なので。『ラヴリ』なんかでいえば、投稿して、駄目で戻ってきたものを載せるとか、そういうのもあったので。

 マンガ家志望の人やとにかくマンガを描きたい人が習作の場という感じで作っていたのが、当時の同人誌の主流だったんですね。最初のころのコミケは女性参加者が多かったと聞いたのですが、実際そうだったのですか?

佐川 僕は1回目から手伝っていたのですけども。「迷宮」というサークルと楽書館に参加していて、コミケには、いしいひさいちさんの「チャンネルゼロ工房」の東京支店長という立場で出ていました。会議室でやる規模で、どちらかというと出品した人たちの関係者しか来ない、一般のお客さんはまずいない。だからお互いにサークル同士で本を交換して仲良くなるという。

波津 そうです。何か学園祭みたいでした。そのころメールもなければ電話代も高かったので、文通していたサークル同士が初めて顔を会わせるみたいな。お互いが本を交換する場でした。

佐川 それで相手の呼び名を「オタク」と言っていたので。

波津 オタクはもうちょっと後なのです。

佐川 そうでしたっけ。僕は使っていましたよ、「お宅は?」と。名前が分からない人でも、同じイベントで顔を合わせる人には「お宅は?」と話しかけ、ろくに自己紹介もしないで、また次のイベントでは「お宅は?」と言って(笑)。

竹宮 顔だけ知っている。

佐川 顔だけ知っていて、顔見知りどまりで、踏み込まないという距離の取り方でやっていましたね。

 では、サークルの交流会というか親睦会というか、今でいうオフ会みたいな感じだったのですね。

佐川 マンガ自体がまだ少数派だったので、マンガを選んだという時点でサブカル、同志。

波津 読むだけの人が少なかった。

佐川 そうですね。購読会員というのが途中から分かれて。

波津 購読会員を作ったのは『ラヴリ』が割と初期のころだと思うのですけど。描いて買うみたいな。

佐川 描き手が読み手という。

 一体化しているような。

波津 一体化というか、そういう人しかいなかった。だから絶対数が少なかったのです。

 なるほど。では、特に女性が多かったとか男性が多かったという感じでもなかったのですね。

佐川 そんなに女性が多いという印象はなかったです。学漫〔大学等の漫画研究会〕の女子大生とか。

波津 少女マンガ系が多かったのではないですか、同人誌で。

佐川 多かったかな、そうですね。

波津 少年マンガの同人誌は、あまり聞かなかったですから。

佐川 そうだ、そうだ、少女マンガだ。

波津 少女マンガの方はやはり『JUNE』みたいにサブカルチャーの方に行ってしまう感じがあったので、商業誌からはみ出した人たちが同人誌を出すみたいな。男性はロリコン系になるのですけど(笑)。

佐川 そうです。

 では、少女マンガ系のサークルの中で、少年愛マンガ的というか、今でいうBL的な要素があるマンガは何割ぐらいあった印象ですか?

佐川 どうでしょうね。何かロック系が目立っていたような、当時は。

波津 時代によって変わるのだと思うのです。だから、さっきも言ったように、投稿作で駄目になったのを載せているところから始まって、だんだん商業誌を意識しないマンガも出てきて。BL系が多くなったのは、そのころ商業誌では描けないというのがあったので、そのフラストレーションをみんな同人誌にぶつけたみたいなところもあるし。だからロックマンガも商業誌でやりづらい部分をやっていた感じですよね。

佐川 そうですよね。

竹宮 そこからちょっと進んで、次の段階ではパロディ誌みたいになっていくのだと思いますけど。

佐川 そうですね。二次創作というふうに。

 竹宮先生は、同人誌の盛り上がりはご存じだったのですか?

竹宮 スタッフの中でそういうことが話されているのを聞いてはいるのですけど、当時すごく忙しいというか、自分のやることに没頭していないと。

波津 週刊連載が。

竹宮 そうですね。だから出掛けていくとかが全然できなかったですね。

波津 竹宮先生に見せるようなものではなかったので、先生のところまで届いてないのですよ(笑)。先生はお忙しいので、そこまで先生の方が歩み寄りもしなかったので。

竹宮 歩み寄れる状況ではなかったので、見られなかったですね。

 なるほど。では、たとえ竹宮先生のお知り合いがやっていても、先生には見せられない感じだったのですね。

波津 アシスタントさんでやっていました? 先生のところのアシスタントさんは、そうでもなかった?

竹宮 どちらかというとファンジン(ファンが作る雑誌)を作っている。私のファンジンを作っているだけなのですよね。だから創作物を載せているというようなことではない。

佐川 そうだ。当時は、とにかく作品リストすら手に入らない時代だったので、まず作品リストを作るという。それがものすごく重宝する。まずマニアがやることは、好きな先生の作品リストを作る、それで雑誌を作る。そこからですからね。

 今でもコミケでは「FC(少女)」など「FC」というジャンル名があって、それは「ファンクラブ(もしくはファンサークル)」から来ていると聞いたことがありますが、ファンの人がマンガ家の先生の情報を集めたような同人誌も多かったということですね。

竹宮 私のファンクラブからアシスタントになってくれているケースが結構あったので。

 そうなのですね。佐川先生、『JUNE』創刊号から同人誌を紹介するコーナーが設けられているのですが、これを作った理由は何ですか?

佐川 やはりそれは新人が欲しいのと、コミケを手伝っていたので同人が盛んなのは分かっていて、最悪メジャーの作家さんにみんな断られても、同人作家さんだけでもできるかなという感じで。
あと、当時は同人誌に会員の住所も載っていたので、そこにDMとアンケートを大量にまきまして、それでいろいろ。
だから、「『JUNE』の1号目からなんでアンケートの回答が載っているの?」と言われるのですけど、実はそれはマンガサークルに片っ端から送っていたというのがあって。「うちのところには来なかった」と怒られたりもしたのですけど。
とにかく新人を最初から育てる気でいたのは『COM』『ガロ』を見ていたので、当たり前に思っていた。あと、やはり分かる人でないと駄目だなと。プロの作家さんに「男同士で一つ、学生とサラリーマンでよろしく」みたいな頼み方はできないのは分かっていたので。分かる人が描いてくれないと意味がないなと思っていたので、分かる人たちに集まってほしいなと。

 『JUNE』の創刊号を見ていて興味深く思ったのは、有名なマンガに出てくる男性キャラクターをパロディ化したイラストコーナーがあることなんですが、そのコーナーを企画された意図は何だったのでしょうか?

佐川 パロディは、笑いも大事な要素であるのと、やはりそれも『COM』なのですけど。石森先生の「ジュン」のパロディで「バン」というのをアシスタントだった永井豪先生が描いていて、これがすごく衝撃に面白くて。ある意味『COM』で一番面白かったのではないかと思うぐらい。
当時、洋服のブランドで「JUN」と「VAN」というライバル会社が有名だったので、それでパロディが「バン」になっているのです。同じ号に石森先生の「ジュン」があって、本編とパロディが載っているという、なかなかとんでもない。耽美的な、ポエムな、詩的な作品となんとそれを茶化したのと、これは本当に面白かった。主人公が地平線にかかる大きな月をバックに女の子を追いかけて走っていって、そのまま月面に激突してしまうという。その月が空に昇っていくと、ちゃんと人型が残っているというね。すごいなと思っていました。
波津先生の『らっぽり』もギャグセンスというかユーモアがすごく面白いなと思っていました。真面目な部分と同時にお笑い、そういうゆとりも必要だなと感じていたので。

竹宮 「マンガというからにはそういうところがなくては」というのが、当時はまだありましたよね。

佐川 そうですね。だって手塚先生が『火の鳥』に、パロディで赤塚不二夫型って、シェーをさせたりなさっているぐらいですから。それもお遊び。

波津 本来の意味のパロディですね。だから元を知っていないと楽しめないというのはあります。

佐川 だから元を知っている人が、それを読んで、さらに楽しめるみたいな。決しておとしめるとかではなくて、リスペクトがちょっと歪んだ形で出てしまったという感じかな。

波津 最近はパロディというと設定とキャラを借りて違う創作をすることになってしまっているのですけど、そういう意味ではなくて、本来のパロディということをこの時代はやっていた。これを商業誌でやれたということですよね。『JUNE』で。

佐川 そうです。『OUT』もそうなのですけど、けっこうみんなギリギリで。

波津 ギリギリで。

佐川 それこそ大手は、やはり、やってはいけないという。

波津 大手では絶対できないということですね。

佐川 ええ。

 当時の同人誌でも、こういうパロディ的な作品がちょうど出始めたあたりだったのでしょうか?

波津 そうですね。アニメでちょっと始まっている感じですね。だから本当に笑えるものだったですよね。

佐川 そうですね。それが最初に大きかった。

波津 だから久掛彦見先生なんかは今でいうBL的な二次創作を『闘将ダイモス』あたりからやってらしたと思うのですけど、あのあたりからだったので。

佐川 増えたのは『キャプテン翼』と。

波津 いやいや、その前に。

佐川 もっとあった?

波津 『機動戦士ガンダム』があるのです。

佐川 『ガンダム』が先でしたか

波津 『ガンダム』で二次創作になってしまうのです。要するに本編と関係なく美しいガルマと美しいシャアの物語になっていって、笑いどころがなく本当に美しい物語だったりしたので、『ガンダム』あたりからちょっと変わってきた感じがします。

佐川 女性のマンガ家が少年マンガというか男向けのを少女向けに描き変える、自分たちが読みたいものにする、というので『少年ジャンプ』が一番ターゲットになったのかな。

 『ガンダム』の前の時代から、男同士の、少年愛マンガ的というかBL的なパロディはあったんですよね?

佐川  一応それはいろいろ細かくあったというか。アニメもそうですし。

波津 アニメのヒーローというのは何人かいるわけではないですか。『キャプテン翼』で劇的に増えるのですけども、主人公と敵役が同世代だったりするわけで、その辺の絡みを描いていくうちに、今でいうBLっぽくなってしまったりとかはあるのですけど、でもそんなによこしまではなかったような気もしますよね(笑)。最初はね。

佐川 というか、友情を愛情というふうに解釈するのが女性。男にとってはそれはあくまで友情で、友達のために死ねてもそれは友情だったり同志愛だったりするのですけども、女の人はそれはもう愛だと。

竹宮 そういう強引さが確かに女性にはあると私も思います(笑)。

 パロディとして遊ぶ中で、少年愛志向みたいなものとだんだん合体していったような感じなのですね。

佐川 一線を越えてしまったというかね。一線を越えていない青池先生がいまだにやってらっしゃる、そこも大事なポイントかなという。

 そういうパロディを描いていた人と、作者の純粋なオリジナル作品を描いていた人は重なっていたのでしょうか?

佐川 重なってもいたし、でもカラオケと一緒で自分が歌いたいからやるという人が増えてきたのかなと。だから、昔はファンで、作者のことが知りたくて、いろいろ研究したりしていたわけですけど、自分が表現したいことをするためにこの作品がいいなというので、カラオケのような広がり方、そちらの方が面白くなってしまったみたいな。

波津 混沌とした時代だと思うので、あまりそういうふうにきれいに分けられないのではないかなという感じです。

 なるほど。まだコミケの参加者もすごく少なかったということですし、今とはかなり違っていたんでしょうね。

波津 そうですね。時代背景を考えていただくと、今の人にはちょっと分からない部分も多いのではないかなとは。

佐川 そうですね、量も少ないし。コスプレの人もいたし、でもどれが最初というのはすごく分かりにくいので。

波津 それもチープでしたし。

佐川 そうですね。まだレベルがあれですけど。

竹宮 徐々に新しい局面が開いていったのではないかと思いますね。パロディからだんだん二次創作っぽいものが生まれてきて、もっとさらに自分たちのやりたいようにやる方向になっていったというか。原作を読まなくてもいい人がいますよね。

波津 私もほとんどアニメを見ないので。ほとんど二次創作から見ている。「ガルマとシャアってこんな関係なんだ」「違います」(笑)。

竹宮 興味あるとこだけをクローズアップ。

波津 そう。結局設定とキャラができているものを使ってエピソードを考えていくのがちょっと練習になっている人もいて、そこから自分の創作に派生していった人もいたのではないかなという感じですね。

佐川 それで商業誌も黙認せざるを得なくなった、二次創作をやっている人からどんどんプロが出てきた。年に2回のコミケに出すために新作を描いて、しかもファンの厳しい目があって、それで面白い作品を次々と描くので、それがそのまま商業誌のオリジナル作品にも通じるものがあったので、公認は絶対できないのですけれども黙認せざるを得ないということだったのかな。

竹宮 黙認しないということが1回あったではないですか。『ジャンプ』が本気で怒って止めようとして。そうすると不買運動になってしまうよというような恐れもあって、それをやめたということが。

佐川 『ジャンプ』が数百万部売れているときに、100 万人以上が女性の読者だったりするわけですから、ある意味少女雑誌でもあったというか、女の人を無視できなくなっていった。

波津 『キャプテン翼』からですよね。

佐川 たぶん、そこから。

波津 『キャプテン翼』で劇的にジャンプの読者が増えているのです。それは女性を取り込んだということじゃないですか。

 いろいろなものが混沌とある中から、女の人が「あ、これ面白い」となったものが膨らんでいって今につながっていく感じなのでしょうね。
その1970年代末に波津先生も『らっぽり』という同人誌を出されています。ここには波津先生のお姉さまの花郁悠紀子先生や、先ほどからお名前が出ている坂田靖子先生、青池保子先生など錚々たるメンバーが参加されていて、伝説の同人誌と言っていいのではないかと思います。

波津 〔スクリーンに映された『らっぽりやおい特集号』を指して〕皆さん見てくださいよ。ワープロのない時代で、手書きなのです(笑)。

 これは、波津先生にお持ちいただいた500部という貴重なものです。

佐川 アナログ時代。

 『らっぽり』はこの前に創刊準備号が出ていて、その後3号発行されたということなのですが。

波津 創刊準備号を知っていたのね(笑)。青焼きの本でしょ。

 現物は見たことがないんです。

佐川 コピーといっても今のようなコピーではない、青焼きコピー〔トレペの原稿と感熱紙を重ねて機械に通すと、ちょっと紙が濡れて出てきて乾かすと少し青っぽく仕上がる〕というのがあって。コピーも進化して。

 同人誌はテクノロジーとともに発展したところがあるでしょうね。波津先生、『らっぽり』はどういう経緯で企画されたのでしょうか。

波津 私は坂田先生のアシスタントをしていたのですけど、『ラヴリ』には入っていなかったのです。でもアシスタントのときに、ちょっと編集のお手伝いをしたりしていたのです。他のアシさんは割と『ラヴリ』の会員さんでした。
さっきちょっと説明したのですけど、『ラヴリ』というのは非常にきちんと作られた同人誌で、同人誌にしては珍しく商業誌的といってもいいぐらいのもので、企画というのが案外できなかったのですよ。一緒にいたアシスタントさんと、ノリでこんな企画をやりたいというときに、「ではちょっと立ち上げましょう」と言って。企画本ですね。

竹宮 企画内企画みたいなのがあって。

波津 そうそう。

竹宮 何とか本にしたいみたいな感じですか。

波津 そうですね。ノリで出た本なので、今追求されると困ってしまうなという感じなのですけど(笑)。

 同人誌は、友達同士でわいわいしゃべっていたものを、「出してしまえ」という感じで出すところがありますよね。

波津 そうです。『らっぽり』というのは、一緒にやった友人が『ラヴリ』の人で、私は高校時代、漫研で『らっぽっぽん』という本を出していたので、合体させて『らっぽり』という名前になったので、意味はないです。今言うと、とても恥ずかしいです(笑)。

 竹宮先生と佐川先生は『らっぽり』はご存じでしたか?

波津 知らなかったでしょ?

竹宮 たぶん、花郁さんたちから聞いていたと思うのですね。花郁さんとか坂田さんから、『らっぽり』というのを出している、そこで「やおい」というのをやっていて、「やおいって何?」という感じで聞きました(笑)。

波津 「何?」ですよね、本当に。

竹宮 はい(笑)。そういう感じで初めて聞いた。

 なるほど。佐川先生はご存知でしたか? 有名だったのですか?

佐川 『らっぽり』とか『ラヴリ』は知っていて、たぶん持っているんですけど、『JUNE』が忙しくなり過ぎて、買っても読めないみたいになっていたので、これの記憶はないですね。

波津 『らっぽり』は3冊しかないので。

佐川 そうか。どうだったかな。では買ってないかもしれない。

波津 もし持っていたら、今高いらしいですよ(笑)。

佐川 そうでしょうね。

 この間、ネットオークションで『らっぽり やおい特集号』が6万円で落札されているのを見ました。

波津 今、出ているんだという(笑)。

竹宮 その中に載るはずの波津さんの生原稿ではなかったかもしれないですけれど、コピーか何かを見せてもらった。

波津 そうなのですか。

竹宮 はい。こういうふうに「山なし・落ちなし・意味なし」なのですねということは確認しました。

 では、その『やおい特集号』の話に入っていきたいと思います。これが『らっぽり』の第1号ですね。

波津 準備号の次ですね。

 『やおい特集号』は、なぜこういう企画にされたのでしょうか?

波津 一緒に作った友達の磨留美樹子さんという、アシスタントをされていた方がいて、彼女はあのころ珍しくマンガ家志望ではなかったのです。本当に自分の楽しみのために『ラヴリ』でマンガを描いていらした方で、すごく映画好きな人で、フランス映画が好き。彼女の描くマンガもフランス映画のように難解なマンガが多くて(笑)。
彼女が「夜追(やおい)」というマンガを『ラヴリ』に描いたのです。それが本当に意味が分からなくて(笑)。ただ、描きたい色気は分かる。でも意味は分からない。淡々とし過ぎて山もないし、みたいな。
彼女が自分で、本当はちゃんと「夜(よる)追う」という意味があるのに、「山なし・落ちなし・意味なしマンガよ」と冗談で言ったのですよ。そのころのアシスタントの仕事場というのは、そういう冗談をとにかくわーっと盛り上げるような場でしたから、それは面白いとなって、「ちょっと形にしましょう」というふうになったのです。
なぜ「山なし・落ちなし・意味なし」が受けたかというと、さっきも言ったように漫画研究会というのが、とても真面目に、マンガ家になりたい人が「どうやったらプロになれるのだ」とみんな頭を悩ましていて、とにかく読み切り投稿作をガンガン描いていかなければいけない時代だったのです。皆さん描きたいものがあふれているのに、このページでまとめなくてはいけなくて、とにかく。

竹宮 エンドマークを付けなければいけないとかね。

波津 そう。だからストーリー構成に投稿者の皆さんは本当に頭を悩ませていて、「山も落ちも意味も気にせず描けたら、それはすてきだよね」という冗談を言っていた。だから、逆説的な意味で、「山も落ちも意味もないのは素晴らしいマンガですね」と。だから仲間内でのしゃれ。本当はそうではない、現実では山も落ちも意味もなければいけないけども、この本の中では「新しいマンガの形です」といって、それがしゃれになっていたわけです。仲間内のジョークだったのです。
この当時の同人誌は仲間内しか読まないと思っていた。読者だけというのは少なかったから、読む人はほぼ自分も描いている人たちだったから、このジョークが通じるだろうといって出したら、思わぬ広がりを見せてしまって(笑)。

竹宮 そう。私も見たとき、「こういうふうにエンドマークを付けない形で描くのだったら、ざくざく描けてしまうよね」と思いました。

波津 そのころのマンガシーンではあり得ないことだったのですよ。だからそれが冗談になった。「あり得ないという前提が皆さんの中にあって、これを楽しんでください」だったのに、一人歩きしてしまって、後々これをマジに取っている人もいて、ちょっと困ったなと。

 先ほど、当時の同人界は、商業誌デビューを目標に、まさに山も落ちも意味もあるマンガを目指している人が大多数の中で、商業誌ではできないことをやろうという人も出てきたというお話がありましたよね。商業誌ではできないことの象徴として、「山なし・落ちなし・意味なし」だったのでしょうか?

波津 そうです。加えれば、「山なし・落ちなし・意味なし」だけど色気はあるみたいなマンガ。だから単に山も落ちも意味もないだけではなくて、ちゃんと色気は残るみたいなところがなければいけない。それで男同士の話になっているのですよ。

 その色気というのは、やはり男同士というのが想定されていたのですか? それとも広い意味での色気なのでしょうか?

波津 広い意味での色気だけど、そのころみんなが醸し出したい、でも商業誌ではやりづらいというものの象徴的に男同士の恋愛があったので。このころ商業誌で男同士もNGだった時代。だから竹宮先生ぐらいでないと商業誌ではできないみたいな。

佐川 というか、男同士にすると、やはり意味が必要になるわけで。そうすると普通は「ゲイでしょ」ということになるので。それで声優さんたちからもよく聞かれて、「男同士ですけど女性のファンタジー」と何百回説明したことか。山も落ちも意味もないけど男同士というふうに、結局落ち着いたのかなって。

波津 やおいマンガのキャラクターというのは妖精さんだと思っていただければ。あくまで現実の男性ではないので。

 まず色気を出したいというのがあって、その出したい色気が男同士だったら出せるかなという感じだったんですね。

波津 男女の色気と男同士の色気は別物なのですよね。

 どこが違うんですか?

波津 それは読んで感じてもらわなくては。「考えるなよ、感じろ」みたいなことで。

佐川 男としては、これはきっと男のいいところと女のいいところを取ったものだなと。男の強さと女性の美しさと両方兼ね備えているから、男なのにきれいな服を着たりするという。男なのに女装する。いいとこ取りを目指したからだったのかなと思ったのですけど。

波津 ちょっと宝塚に近いかもしれないです。

佐川 美意識的には。

 現実にはない男性像を表現するのは、宝塚歌劇もそうですね。

波津 宝塚の男役さんは現実には絶対いないではないですか。でもすごくかっこいいではないですか。そういう感じがちょっとありますよね。

 ちなみに、波津先生がやおいの登場人物は妖精さんだとおっしゃいましたが、宝塚の舞台に立つタカラジェンヌも「フェアリー」と呼ばれています。そういう妖精さんを描くような、波津先生たちが「やおい」と呼んだ「山も落ちも意味もないけど色気はある」マンガは、当時の同人界では既に結構描かれていたものなのか、それとも磨留美樹子さんたちが今までになかったようなものを描かれたのか、どちらなんでしょうか?

波津 当時、山も落ちも意味もなく描いていた人は力不足といわれていたわけですよ(笑)。

佐川 要するに必然性を描けないという。

波津 そうそう。

佐川 説得力がないということだから。

波津 そうそう。説得力もないし、こんなのを商業誌に持っていったら絶対構成面で駄目と言われるものを冗談でしただけですよ。だからみんなのすごく悩んでいる部分だったのです。

 これを描きたいのだけども、山・落ち・意味が。

波津 違う。山・落ち・意味を描かなくてはいけない。描かなければいけないけど、うまく作れないという。

竹宮 そうですよね。そこが作れるなら苦労はしていない。

波津 苦労はしないです。

竹宮 そういうことですよね。

波津 磨留さんも別に山も落ちも意味もなくしたかったわけではなくて、描いたものがたまたまそうなってしまったという(笑)。だから意識してやったわけではないのです。こういうふうに定義付けしてしまったので、意識的にやっていると思われがちなのですけど、そうではなかったし、はっきり言って山も落ちも意味も描けない人はあまりいいふうには見られていなかった。「マンガ家になれないんじゃない?」みたいに言われてしまっていた人たちだから。

 むしろ表に出せないなものを拾い上げるようなイメージでまとめたのが『やおい特集号』だったんですか?

波津 拾い上げたのではなくて、これは完全企画で描いています。だから一人一人の先生に依頼して4ページ描いてもらった。タカ派とかハト派とか出てきますけど、これも企画でそういう振り分けをして。最初に企画ありきで皆さんに描いてもらっているので、拾い上げたのではないのです。つけ加えれば、この『やおい特集号』の作品はどれも意味があります。やおいじゃないですね。

 なるほど。

波津 〔スクリーンに映された『らっぽり』を指して〕今日もってきたのは同じページが2枚あったり(笑)。乱丁本(笑)。

竹宮 さらに貴重(笑)。

波津 まともなのをどうも全部出してしまったらしくて、うちにはこういうのしか残っていなかったのです。

 売らずによけておいたものが。

波津 そうそう。あと印刷ずれしているものとか、そういうものしか残ってないという感じ。

 『やおい特集号』は、当時マンガを描いていた人が「うまくいってないな」と悩んでいたような作品でも、「これはすてきじゃない、面白そう」という感じで出されたんですか?

波津 そんなのではなくて、本当に「笑い飛ばしましょう、みんな」みたいな。「次にちゃんと山も落ちも意味もあるものを描こうね」ということなのですよ。

 「失敗作を披露してしまいます」みたいなノリとは、また違うんですよね?

波津 違います。

竹宮 失敗作ではないですよ。本人はたぶん、温めているのだけど、とか、そういうものがあって、その中でまだ描ききれないもの。

波津 だって本人は失敗作と思っていないのですよ。

竹宮 「一番いいところだけ出しました」みたいな。

波津 そうですね。これで4ページ規定で描いたので、おいしいシーンだけ描くというのが流行ってしまって(笑)。それもちょっと困ったのですけど(笑)。

竹宮 でも本当にざくざく描けてしまうのですよ。

波津 そうそう。苦労しなくて、設定説明も要らないし。

竹宮 「これは楽しいわ」と思いました。

波津 だから、「プロになることを完全に忘れましょう」という企画です。

 プロ的な山あり落ちあり意味ありマンガではなくて、「本当に描きたいものを描きたいところだけ描いてしまいましょう」という感じでしょうか?

竹宮 そういう企画ですよね。企画としては。

波津 というか、それを推奨していたわけではなくて、「企画で今回だけやろうね」ということであって、その後そんなに続くと思わなかったのですよ。

 「あえてやってみよう」みたいな?

波津 というか、「本当に面白い企画でしょ」と。そのころマンガを描いていた人たちに、「見て見て、こんな冗談を考えたよ」「笑える」で終わると思ったのですよ(笑)。

竹宮 3号続いたけれども、そのうちの1号だけが「やおい特集」だったのですか?

波津 そうです。これっきりです。だからこれを続けようとは全然思わなかったのですけど、言葉だけ一人歩きしてしまって、同人をやっている人たちがちょっと言い訳に使い始めて(笑)。

竹宮 言い訳。

波津 「私のマンガはやおいだから」みたいな。そのうち、最初に男同士ばかり入れたせいもあるのですけど、「男同士のマンガ=やおい」になってきたではないですか。そうしたら「やおい」の意味も変わってきてしまって。

竹宮 そうですね。一人歩きですね。「やめて・○○は・嫌」とか、そういう。

 後から「やおい=「やめて・お尻が・痛い」の略」といった言葉遊びが出てきましたよね。

竹宮 そんな話があったのですか。それは知らなかった。

波津 そうなのです。私はこれきり同人誌はやらなかったので、まさか同人界でそんなことになっているとは思わなかったですし、『imidas』に載るとも思わなかったのですけど(笑)、載ったのですよね。世界的な言葉になるとも思わなかった。
初期の「みんな、ジョーク分かるよね」という人に向けて出して、そのころは絶対数が少ないですから、やはり本来の本当の意味を知っている人はあまりいないのですよ。言葉だけ一人歩きしていって、「やおい、いろんな説」が出てきて。やおいの言葉の語源が。

竹宮 やおいについて説明するのは、もう波津先生しかいないではないですか。

波津 他のメンバーが全然出てきてくれないので、私が一応生きている間に真実を伝えようと(笑)。というのは、本当にいろいろ言われて。マンガ研究をやっている藤本由香里先生がリアルタイムで読んでなくて、お会いしたときにすごく真面目な顔で「波津さん、「やおい」って本当に波津先生たちが作った言葉?」と聞かれて「そうですけど」「何か江戸時代からあるって聞いたのよ」と言われて、「ええっ、それは何?」と思って。後にそのころの同人誌をやっている人に聞いたら、やおいは江戸時代からの言葉だというパロディマンガを描いた人がいた。その人はジョークで描いているのですけど、後に研究している藤本先生がそれを本当と思ってしまうぐらい世の中が変わり過ぎてしまいました。だから、今言ったことが真実ですので。

 とても重要なお話ですね。

波津 もう何回も話しています。『JUNE』でも書いてはいるのですけど。

 波津先生たちが最初「やおい」と呼んだものは、例えば竹宮先生が描かれていたような少年愛マンガと同じ範疇にあるというか、その系譜にあると意識されていましたか? それとも全く別のものと思われていたんでしょうか?

波津 もちろん意識していました。でもさっき言っていたみたいに、要は妖精さんたちではないですか。現実の「ホモ」とか「ゲイ」とかでは自分たちがピンとこなかったのですよ。「『ホモマンガ』と言われるとちょっと違うし、『ゲイ』というのも違うし」みたいな。「何か呼び名があればいいね」みたいなところはあって。「少年愛」という言葉はあったのだけど、少年に限らないこともあったので。

 では、男妖精さんたちが出てくるマンガを表す言葉としてあったんですね。

波津 そう。そしてやはり、少女マンガに限り、だったのです。女の人が分かる感性みたいなのがあって。だからムキムキな人は出てこなかったです。初期は。

佐川 そうです。サン出版は『さぶ』も出していたので、その責任上、時々『さぶ』の作品を、「現実は違いますよ」ということを教えたいために載せていました。

 佐川先生は「やおい」という言葉をいつごろ知ったのですか?

佐川 やはり一般に広まってからですが、『らっぽり』のこれが最初だ、ジョークだなということは知っていて。江戸時代からとは思っていなかった。

波津 リアルタイムでご覧になりましたか?

佐川 それは覚えていないので、見たかもしれないけど記憶には残っていなかったですね。ただ、波津さんたちのグループが冗談がうまいというのは、任侠のパロディとかも面白いし、非常に印象的で。僕は、波津さんはすごく硬いシリアスなものとジョークと二刀流な人だなという印象なのです。ジョークが分かる女の人は貴重だなと思っていたので。『JUNE』にも笑いというかツッコミどころがないと、本当に真面目に純愛で、みんな心中してしまうので。

波津 昔は多かったですね(笑)。

佐川 そこをツッコめよという。

竹宮 そうですね。『JUNE』は割とそういう系が多かった。

佐川 そうなのですよ。

竹宮 耽美系ですから。

佐川 みんな怒るのですよ。

波津 学園ものが出るまではそっちだった。

竹宮 そうですよね。

波津 私は『小説 JUNE』に挿絵を描いていましたけど、ほぼ主人公は死にました。血を吐く病気か心中です。

竹宮 だから「フジミ」〔『小説 JUNE』連載の秋月こお作「富士見二丁目交響楽団」シリーズ〕が出てきたときに、そうではない設定もあると。

波津 「フジミ」の前にごとうしのぶさん。

佐川 ごとうしのぶさんが『小説 JUNE』に書かれた「タクミくん」シリーズという小説があって。

波津  「タクミくん」シリーズが割と明るい感じで、学園もので。

竹宮 「そういうのが出てきたのだ」と思いましたけどね。

佐川 BLとJUNEの境目になったのは、心中とかで終わる小説を読んだ感想に「最後まで読んで損しました」という手紙が来て、「なるほど!」と。それが非常に感心したというか。だって、「いろいろあって苦労して、やっぱり駄目でした」というと、ただの現実になってしまう、フィクションは、嘘でもいいから幸せになってほしいというほうを目指すべきかもしれないなと、すごく一理あるなと思って。だからそっちの方がBLなのかなと。心中してしまって、あの世で幸せになったりするのが、ある意味『JUNE』の時代で、そこから楽しく理想を男同士に見つけて幸せになるのがBLなのかなと思ったのです。

 その手紙が来たのはいつぐらいか覚えてらっしゃいますか?

佐川 それはちょっと覚えてないですけど、とにかくその衝撃は覚えていて。「損しました」というのがね。「最後まで読んで損しました」という感想があるんだという。

波津 死ぬ話が多いですよね。

佐川 そうそう。とにかく死んだら駄目でしょう、というツッコミなのですよ。

波津 結構前ではないですか。

佐川 どうだったのだろうな。

波津 「タクミくん」シリーズではそこまでではない。

佐川 いつだったんだろう。あの辺もそろそろ境目というかね。投稿作品の中にもBLっぽい人が増えてきて。ただ『JUNE』の中では、BLっぽいものは実はあまり評判が良くなかったのですよ。真面目な読者から割と怒られるみたいな、そういう雰囲気もちょっとあったりして。だから『JUNE』と違うということで、たぶんBLという言葉が広がり始めたのではないかなと。『JUNE』と区別化するためにかな、と僕は思っているのですけど。

 竹宮先生も、「お絵描き教室」で、このあたりからちょっと雰囲気が変わってきたなと思われたことはありましたか?

竹宮 そうですね、それこそ西炯子さんとかが出てきて、自分たちとそんなに年の変わらない主人公たちを設定して、高校生同士の話とかを描いているわけですから。私なんかは主人公が死にまくるわ、地球は壊滅するわという話を描いているわけです(笑)。「現実ってこれぐらい厳しいんだよ」ということを教えたい時代だったからそうしたのですけど、佐川先生が言ったような「損した」という意見というのは、今は当然のようにあってですね。「ハッピーエンドでないと話ではない」という人もいるわけなのですよね。それは時代の要求だと思うので。

波津 あと「フジミ」が出たのも大きくて。

竹宮 そうですね。

波津 「フジミ」はハッピーエンドの後も描いているわけではないですか。2人で同棲して。秋月先生が筆力があってお上手だったので、とてもうまくリアルな部分を入れつつ、2人の社会との交わりとか描いていて、「そうか、男同士も絶望的ではない」みたいな流れができた。

竹宮 女の子も出てきてね。

波津 そうそう。

竹宮 それを客観視しているというような設定も出てきたので。

波津 ちゃんとした社会の中でその2人が暮らしていくという。

竹宮 あり得る話です。

佐川 音楽という共通の目的があったからよかったので、それなしで2人で向かい合っているとケンカするしかなくなるので、それも大きかったかなというのと、中島梓さんの『終わりのないラブソング』〔栗本薫名義で『JUNE』に連載〕が真面目にいった結果、2人でエッチができなくなってしまったのですよ。『JUNE』としてはとても困って。それで秋月さんには、「必ずエッチはしてくださいね」と伝えまして。

波津 という流れです。

 なるほど。そうして色々と変化していく中で、波津先生たちから生まれてきた「やおい」という言葉が思いもよらず広がっていって、元とは違う意味でも使われ出した状況をどういうふうにご覧になっていたのですか?

波津 「どうもこうも」みたいな感じですよね。直接そういうところに関わることがなかったので、「そんなに悪いことに使わなければいいのではないの」みたいな。

 では、「それはそれでいいのではないか」という感じだったんですね。

波津 そうですね。コミケがすごく大きくなってきてしまって、社会的な問題もいろいろ出てきてしまって、一時多かったのが「今のコミケをどう思うか」みたいなインタビューをされるのですよ。「今の人は困ったものですね」と言わせたいためのインタビュー。「いや、いいんじゃないですか」しか言わなかったので(笑)。

竹宮 私も大概そうですね。「いいのではないですか」と。「独り立ちして発展していっているからいいのではないですか」と言うと、「それが面白くないのだ」という話で(笑)。

波津 『imidas』に載ったり、アメリカでYAOIイベントが開かれたりして「ひゃー」とか思いましたけど、直接関係はないので(笑)。

佐川 『JUNE』としては、『JUNE』しか出ていなかったから、みんな我慢して読んでいたので売れていたという部分があったのですけど、競合誌がいっぱい出てきて。それも女性の編集者が作って、女性の好みに合わせた、かゆいところに手が届く本がどんどん出たので、売れ行きが落ちて当然なのですけども、会社的には『JUNE』の売上が悪くなると会議で問題にされるわけで。いろいろ聞かれて、「何で売れないんだ」「今BLが売れているので」とか言うと、「ではBLを入れろ」と。うちで『さぶ』も出しているから、『さぶ』っぽいのも入れろと。「では今までの『JUNE』的なものと三本柱でいきます」と答えるのですけど、結局ページが少ないので、三本柱といってもただとりとめがないだけで、全然解決策になってなくて。そこで読者からツッコミが来て、「BL は読みますけど『JUNE』で読みたいとは思いません、『JUNE』は『JUNE』らしくしてください」というまっとうなアンケートが返ってきて、「ほら見ろ」という(笑)。
だけど売上が下がっていくのは会社的には困る。 増刊号を出したいといっても、それも駄目だったのですよ。増刊号は本誌より部数が出せないのです。こっちは、いったんここは撤退して、増刊で様子を見て、そこから本誌を立ち上げるようにというつもりで増刊号の企画を出すのですけれども、そういう実験をさせてくれない。最初から部数が少ない企画は駄目で、「今の『JUNE』より売れるものを出せ」という、会社が右肩上がりの時代の要求があったので。〔『小説 JUNE』連載の吉原理恵子作〕『間の楔』が当たった後に、「あれより売れるものは」という感じで「フジミ」があって。でもそれぞれ10年に1度の作品みたいなものなので、それを次々と出せと言われても困り、だんだん力尽きていってしまったという感じです。

 やおいの時代を超えてBLまで話が進んできましたが、『らっぽり』の話に戻りたいと思います。『やおい特集号』の後、『CM特集号』と『合体任侠号』が出ています。この『合体任俠号』は、高倉健などが主演していたやくざ映画、いわゆる任侠映画のエッセンスを詰め込んだようなパロディ的な作品が掲載されています。

波津 これも今はもうないのですけど、昔は健さん〔高倉健〕、文さん〔菅原文太〕のやくざ映画をみんな当然知っていたみたいなベースがあって作った本なので、これだけ読んで面白いのかどうなのかはよく分からない(笑)。

 やくざ映画というと男性にすごく人気があったイメージがあるんですけども、当時は女性も結構見ていたのですか?

波津 いや、そんなことないですけど。これは橋本多佳子さんとノリで作っているのですけど。あのころ金沢のポルノ映画館のオーナーが実はすごく映画好きで、夏休みだけオールナイト映画をやるのですよ。オールナイトで日本の映画、ATG映画とか寺山修司とかそういうのをやって、その中にオールナイトで健さんとか、オールナイトで文さんみたいな回があって、そういうのを見に行っていた。大体その辺からです(笑)。

 マンガのタイトルが「兄弟仁義」になっているんですが、実際に『兄弟仁義』というやくざ映画があるんです。でも、この『らっぽり』の作品は、『兄弟仁義』の映画を今でいう二次創作的にしたものではないですよね?

波津 ではなくて、『兄弟仁義』というのはタイトルだけもらっていて。要は「任侠ものはこうだよね」と。水戸黄門みたいに、最初にこういう犠牲者が出て、「もう我慢できません。俺は行くぜ。姐さん止めないで」みたいに行くという、健さんの映画のパターンがあるのです。そのパターンをやってみたというだけの話で( 笑 )。「いろいろな人に描いてもらおう」と言って、いろいろな人が描いているのですが。

 各キャラクターの絵を担当している方がそれぞれ違うんですよね。 この『合体任俠号』は、任侠映画がお好きでよくご覧になっていて企画されたということなのですが、『CM特集号』はどうして企画されたのですか?

波津 『CM特集号』は、やはりノリで。磨留美樹子さんというのが、アマチュアですけど、なかなかいいセンスのコピーライターだったのですよ。今まであるCMをうまくパロディにしてコピーするのが面白くていろいろ描いたのですね(笑)。

 『らっぽり』は、やおいにしろ、任侠映画にしろ、CMにしろ、何かエッセンスを取り出して見せるみたいな企画だったのですか?

波津 全部パロディではないですか。大元があって楽しめるものですね。やおいにしろ、CMにしろ、任侠号にしろ、要するに「皆さんこの元を知っていますよね」という前提。だから、決して多くの人に読んでもらおうと思っていないのですよ。仲間内の冗談で済んでいるのです、自分たちの中では。〔スクリーンに映った『CM特集号』の1ページを指して〕すごいでしょ、これ。『CM特集号』のこれ、描き下ろしですよ。

 エーベルバッハ少佐の絵ですね。青池保子先生の代表作の一つである『エロイカより愛を込めて』のCMです。

波津 青池先生もこんなことをしてくださった時代がある(笑)。

 青池先生が連載でお忙しいながらもこういう企画にも参加されていたのは、当時の少女マンガ界の空気なのかもしれないですね。

波津 準備号というのがコピー本であったのですけど、準備号がこういう CMばかりというか予告ばかり載せていたのですよ。描くか描かないかは分からないけど、勝手に予告をあおるみたいなのを準備号でしていたのです。その原稿をこのCM特集号に入れているのです。コピーだけではもったいないと思って。

 印刷でも、と。

波津 だって坂田先生とかプロの人がせっかく描いているものを、青コピーの本当に何十冊しかないのではもったいない。

 すごくもったいないです。

波津 それで使ったのですよ。

 なるほど。そういうのもあってCM企画になったのですね。

佐川 オフセット本が当時貴重というか。オフセット印刷が広まって町の印刷所が安くやってくれるようになったので同人誌が広がった。それまで本当に青焼きコピーとか、普通のコピーとか、肉筆回覧誌しかなかったのに、オフセットの進化が。

波津 高かったですからね。

佐川 まだね。だから貴重という感じで。

波津 貴重でしたね。本当にワープロがないので。

佐川 手書きで。

波津 全部手書きという(笑)。

竹宮 手書き文字がすごいですよね。

佐川 とにかくアナログの時代だったので。

波津 アナログでしたね、本当に。『合体任俠号』は、カラーのそういう表紙にする予定ではなかったのですよ。だからそのカバーをめくると本来の表紙が出てくるのです。

佐川 唐獅子牡丹。

波津 うん。おまけの冊子も別に付いていなかったです。でも、さっき言っていた久掛先生がナール出版という同人誌出版を紹介してくださって、そのころカラー表紙をやり始めていたので、カラーを付けましょうとなったら、ちょっとやそっとでは採算が取れない。それで「おまけを付けて、ちょっと高めに売りましょう」みたいな。だから割といろいろな戦略を考えて(笑)、やっていたのですよ。

佐川 新書館から『兄弟仁義』が出たのは?

波津 再版なんかとてもしんどくてできないとなって、新書館が「ではうちで」と言ってくださった。

 新書館から『らっぽり合体任俠号』が『兄弟仁義』というタイトルで商業出版されているのですが、それは再版の要望があるぐらい反響が大きかったからということなのですね。

波津 カラーが付いていて、やはり100単位ではとても採算が取れないので、3000ぐらい刷ったと思うのですけど、全部通販で売ったのです。イベントには1冊も出ていないです。通販でそれを売るということがどれだけしんどいかというと(笑)。

竹宮 作業的にしんどい。

波津 そうそう、作業的にもしんどい。「もうこりごり」「絶対再版しません」と言っていた(笑)。

 それだけ大変でも、「出したい」という気持ちが『らっぽり』を支えていたんでしょうか?

波津 『らっぽり』は支えるものではなかった(笑)。突発的にノリで作りたいときに出てくるという。

 そして意外と大変だった、と。

佐川 というか、それぐらい広がってしまった。

竹宮 いくつぐらいのとき?

波津 21ぐらいです。

竹宮 やはり若い(笑)。

波津 こういう話をするとしんみりするかもしれないですけど、『兄弟仁義』の中に姉が数コマ描いているのですけど、それが絶筆です。

竹宮 そうですか。

 この姐さんのキャラクターですね。

波津 それです。これは入院していて、一時帰宅したときに描かせたという。鬼のような妹(笑)。

 それが絶筆になられたんですね。

波津 だから入院前から企画はしていたのかなという感じ。

 そろそろ、時間もオーバーしていますので、そのしんみりしたお話で終わらせていただこうと思います。

波津 すみません、しんみりして終わらせてしまって。

 以上、駆け足ではありますが、『JUNE』からやおい、さらにBLまでを追ってきました。つたない司会ではありましたが、当時の状況がうかがえる貴重なお話を聞かせていただきましてありがとうございました。
それでは、最後にお一人ずつ、本日の感想ですとかあの時代を振り返って今思うことなどをお聞かせいただけますか。佐川先生からお願いします。

佐川 では、『小説 JUNE』の方でエッセイをずっと書いてもらって、もしかしたら最長連載かなというぐらい書いてもらっていた湯田伸子さんの本を紹介させてもらいます。さっき話に出た柴門ふみさんのお茶の水女子大学の漫研とSF研と両方の部長をやられていた方で、大島弓子先生のアシスタントをされていたのですけれども、亡くなられてしまいました。それで、これは漫研の柴門さんと、SF研から作家になられている川上弘美さんと、美術館で学芸員をなさっていた方3人と、弟さんでまとめられたものなのですけど、マンガの代表作と、3人がセレクトしたエッセイの素晴らしい、面白い部分がまとめて載っている本ですので。少ない部数ですが、本当にいい話がいっぱい載っていますので、ぜひお読みになっていただければ。
久掛彦見さんも亡くなられて、そろそろ訃報を聞くような時代が来まして。僕もおととしのクリスマス直前に血を吐いて、”見知らぬ天井“という状態になったので、今のうちに言い残せることは言い残しておこうというモードになっています。まだまだ語っていないことが、それこそ、さっきの三ツ矢雄二さんがいたおかげで今日のBLドラマがあるというようなこともちゃんと語っておきたいので、何か機会がありましたら。
中島梓さんも来年早川書房から本が出ることになっていて〔『栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人』〕僕も取材を受けたのですけども、その時代でなければなかったいろいろな偶然や面白いことがいっぱいあったので、なるべく言い残しておきたいと思いますので、また何かそういう機会がありましたら、ぜひ参加していただきたいなと。
あとリクエストなどありましたら、いろいろな出版社に出していただけると。紙の本がすごく出しにくくなっています。この湯田さんの本も本当は普通の出版社から出てもいいのにと思うのですけれども、残念ながら。残念ながらといっても、こうしてちゃんと追悼本が出ていますのでね。そういう意味では今はいい時代なので。よろしくお願いします(拍手)。

 ありがとうございます。次に、竹宮先生、お願いします。

竹宮 私は、インタビューとかでよくあることについて聞かれることがあったりするのですけれども、それが本当にごく一部しか話せないまま、つながらない状態で現状あるかと思うのですけど。自分の著作の中でできるだけ触れられるところは触れたつもりなのですけど、こうして話してみると、いろいろ根掘り葉掘りしているうちに「あ、そうだった」ということがいろいろ出てくるものなので、そういう意味ではこういう形で話をさせていただける機会があるというのはいいことかなと思います。非常に研究的な視点でまとめてくださる方がいるというのもすごくいいことかなと思います。一本ちゃんと筋が通って良かったと思います。

佐川 そうですね。ついでに、2人の対談が平凡社の『こころ』という雑誌に間もなく出ると思います〔vol.43〕。この京都国際マンガミュージアムで対談をさせていただいて、荒俣宏館長と縁が深い平凡社の雑誌で読めるという。

竹宮 「こんな事情で『JUNE』を出しました」というお話をいろいろしたのですね。

佐川 荒俣館長も少女マンガを昔描いたことがある筋金入りのマンガファンですので。

竹宮 読んでいただきたいものでもあります。今日は「『JUNE』からやおいまで」といううたい文句が興味を引いたのか、非常にたくさんの方に来ていただいておりますが、皆さんも共犯者なので(笑)、ぜひこの後も残していくことに協力をしていただけたらなと思います(拍手)。

 ありがとうございました。では最後に波津先生、お願いします。

波津 今お話ししたように、非常に狭い仲間内の冗談で始まったことが、まさか世界に羽ばたくことになるとは思いませんでした。自分の手を離れてから全然関知しなかったのですけれども、ご縁があって日本マンガ学会に出していただいたときに結構若い研究者の方にすごく質問されるのですよ。大体皆さん、とても真面目に捉えてらして、時代背景をあまり分かっていらっしゃらない方も多いなというのが気になっていたので、これを機会にその辺を東さんにおまとめいただいて、生きているうちにしゃべっておいて良かったなと思いたいです。
皆さん長い間お疲れさまでした。ありがとうございました(拍手)。

 ありがとうございました。それでは、以上で第2部のトークショーを終了させていただきたいと思います。長い間ご清聴ありがとうございました(拍手)。

※本稿に出てくる作家名は、改名前後どちらかに統一せず、当日語られたままの表記にしています。

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