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【元編集者対談:少女マンガ超入門!】

資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/166682...



pen 2013年06月01日号 通算337号
発行所:阪急コミュニケーションズ
発売日:2013年05月15日




「pen 2013年06月01日号」78-82ページ
少女マンガ超入門!
(図版に続いてテキスト抽出あり)








少女マンガ超入門!

マンガ家を支えた陰の立役者たち
黄金期を築いた、敏腕編集者の仕事。
ヒット作が多数生まれた黄金期。
当時の作家を育てた大手出版社の元編集者たちが、その熱き裏舞台を語りつくした。

司会進行・藤本由香里 明治大学国際日本学部准教授
●筑摩書房の編集者を経て、現在、明治大学国際日本学部准教授。マンガ評論や女性のセクシュアリティなどを中心とした評論、作家活動を行う。同大学にて国際マンガ図書館の設立準備に参加。



編集とは未だない、
新鮮で面白いものを
読者に提供することだ!
──小長井信昌(Nobumasa Konagai)
●1930年生まれ。集英社に入社後、『別冊マーガレット』編集長時代、マンガ スクールを創始。73年白泉社創立に参加。『花とゆめ』『LaLa』など新少女マンガ誌を創刊、多くの若手マンガ家を育成。90年白泉社社長に就任。退社後もマンガ界のご意見番として活躍。本年文化庁メディア芸術功労賞受賞。著書に『わたしの少女マンガ史』など。



編集部に配属されるまで
少女マンガなんて
読んだことがなかった。
──佐治輝久(Teruhisa Saji)
●1936年生まれ。集英社で一貫して少女マンガの編集に携わる。78年創刊の『ぶ〜け』は月刊マンガ誌初のA5判小型サイズでボリュームある雑誌を立ち上げた。感性豊かで芸術的な才能を発揮した作家たちの豪華本を作るなど、夢のある本作りで好評を博す。作 家には常に「仕事しやすい雰囲気づくり」を心がけ多くの時間を共有した。



女性作家の感性は
理解不能だからこそ
面白いと思う。
──毛利和夫(Kazuo Mori)
●1947年生まれ。小学館で『少女コミック』や『プチフラワー』『少女コミック』『ちゃお』など数多くの少女マンガ誌を歴任。『別冊少女コミック』では編集長を務めた。少女マンガの新しい流れを作った「花の24年組」の作家たちとの仕事も多く手がける。その後マルチ編集室にてコミック文庫の復刊や、さまざまな企画を担当。



小さな女の子って
夢と現実の境がないから
ファンタジーにハマる。
──入江祥雄(Yoshio Irie)
⚫️1955年生まれ。講談社に入社し、児童書の編集に携わった後、『別冊少女フレンド』を経て『なかよし』に異動。当時部数の低迷に悩んでいた同誌を一 新、『セーラームーン』の大ヒットにより、社内最高記録部数をたたき出す。その後ライツ事業局ではアニメ・ドラマ化の仕事を、海外事業局では外国での出版、放映権の交渉に務めている。



──まず最初にみなさまの編集経歴を簡単にお伺いしたいと思います。

小長井 僕は1955年に小学館に入社、3カ月間の見習い期間を経て集英社に行きました。初めに配属されたのは希望通り少年雑誌 「おもしろブック」です。ここで10年務めた後、「りぽん」、すぐに「別冊マーガレット」に異動になり、少女マンガを10年やりました。73年に集英社から新しい出版社、白泉社を立ち上げることになり、ここで中心となって 「花とゆめ」 や「LaLa」を創刊。計30年の年月をマンガ編集者として過ごしました。

佐治 僕は集英社に1959年に入社。 最初の配属は 「少女ブック」、翌年「りぼん」に異動になります。その後68年に「りぼん」の姉妹誌として創刊された「りぼんコミック」の主任になり、70万部も売れてとても好調だったんですが、集英社初の女性雑誌「non・no」の創刊に伴って休刊になってしまった。やがて78年、「りぼん」よりやや年齢層を高めに設定した「ぶ〜け」が創刊され、11年間、編集長として携わりました。

毛利 私は77年に小学館に入社して「ビッグコミック』が最初なんですよ。3年後に少女マンガに異動になり、「少女コミック」を2年、「別冊少女コミッ ク」 を6年、「ちゃお」 「プチフラワー」 「週刊少女コミック」「プチコミック」 などを経て、コミック文庫の復刊などを編纂するマルチ編集室で少女マンガに関するいろんな企画を手がけました。

──ずいぶん異動が多いようですが。

毛利 小学館は基本、2~3年で部署異動させてたんですよ。

入江 僕は55年生まれなので、ちょうど小長井さんが集英社に入られた年で すね。78年講談社入社です。最初は児童文学の部署に配属され、ムーミンとバーバパパシリーズなんかを作ってました。それから2年後に「別冊少女フレンド」に異動になり、そこに8、9年。89年に「なかよし」に配属され、編集長として13年間務めました。



男性の目から見た、
少女マンガの世界とは。

──逆に13年とは長いですね。

入江 社内では最長でしたね。その後ライツ事業局としてマンガのアニメ化・ドラマ化などの仕事に携わります。現在は取締役としてライツ事業局・国際事業局・中国事業室を担当しています。

──男性のみなさんが少女誌に配属された時の感想はいかがでしたか?

小長井 僕の場合は少年誌から少女誌に移されちゃったんだけど、マンガの本道は少年誌だと思ってました。

佐治 僕も少女マンガなんて読んだこともなかったね。でも、初期の「りぼん」 なんかは小説も扱っていて遠藤周作さんや阿川弘之さん、水上勉さんなんか執筆していた。芸能やファッションも扱う総合誌だったから。「魔法使いサニー」(原題)は横山光輝さん、「ひみつのアッコちゃん」は赤塚不二夫さんと、当時は男性作家も多かったんだよね。

毛利 私も「ビッグコミック」の時は手塚治虫先生や「ゴルゴ13」担当でしたから、青年マンガの読者ではあったわけですが、初めて少女マンガを見た時は登場人物の顔が見分けられなかった(笑)。当時の「ビッグコミック」 の編集長からは「少女マンガは見づらいから、はみ出しを減らせ、奥行きを描け、人物の描き分けをしろ」とさんざん言われましたね。

──青年マンガのセオリーを少女マンガでも守ろうとしたんですね。

毛利 当時、学年誌部門にあった少女マンガを、青年・少年誌部門に吸収合併したといういきさつもありまして。いわば派遣された男性誌の編集者が異性でも読めるようなものをやれ、という状況でした。
少女マンガにホラーとスポーツも必要だというので、楳図かずおさんの「洗礼」も担当しましたね。動物の虐殺シーンはぼかしたりして苦労しました。

入江 僕は少女マンガは「別フレ」に配属になって生まれて初めて読んだ(笑)。なかなか読めなかったけれど、とにかく自分が読んで面白いと思う順位をつけてみろ、といわれ、後で読者アンケートを見たら、ほとんど自分の順位と一緒だった。この時「無理しなくていいんだ、自分の面白いと思うものを作っていいんだ」と安心しました。



ヒット作に必要な、
恋愛とハッピーエンド

──みなさん編集長時代、掲載の判断基準というのはどこにあったのでしょうか? 少女誌ならではの基準というのはありますか?

小長井 僕の時代は少年マンガのほうがテーマにバラエティがあったから、少年誌の手法をもう少し取り入れてもいいんじゃないかと。

毛利 私も少年誌の王道である「友情・努力・勝利」に該当する少女マンガの3大要素は何だろうってずっと考えてましたね。「恋愛」と「ハッピーエンド」は外せない。あとひとつは何だろう?ってね。

佐治 恋愛とハッピーエンドはやっぱ外せないです。「りぼん」時代に僕が担当した一条ゆかりさんは当時シリアスを描きたがったんだけど、最初はロマンチックコメディ中心で描いてもらった。その後どんどん人気が出てからはロマコメとシリアスの比率を半々くらいにして彼女の描きたいものを増やしていきました。後期はシリアスな「砂の城」も僕が連載を起こした。

入江 僕が入社した時は「キャンディ(ハート)キャンディ」の全盛期で、「なかよし」はものすごい部数を出してたんですね。少年誌より全然多くて。
ところが僕が編集長になった頃には、180万部以上あった部数が78万部まで落ちてた。それに比べ、「りぼん」は200万部出てたんですよね。そこで、最強のラインアップで恋愛マンガをずらり並べていた「りぼん」との差別化をせねば、と思いました。「なかよし」も当時全部恋愛ものでしたが、ラインアップを大きく変更して、ファンタジー中心に切り替えました。「りぼん」よりやや低めの年齢層を狙おうとしたんです。前に児童書をやっていたのもありますし、小さな女の子 って夢と現実の境がないというか、ファンタジーの世界に同感できる世代ですよね。「ミラクルガールズ」とか「きんぎょ注意報!」あたりから超能力少女やギャグ路線へとシフトしていき、「美少女戦士セーラームーン」へと続きます。92
年の2月号から連載が始ま って、93年には205万部にまで盛り返しました。ここでもやはり恋愛とハッピーエンドは外せない要素でしたね。「セーラームーン」は女の子が闘う話ですが、恋愛の要素は非常に大きい。うちの場合はそこにファンタジーを入れたことが転機となりました。

──少し時代を追って考えていきたいと思います。 小長井さんが入社なさった1955年という時代は、いまとずいぶん状況も違ったかと思いますが。

小長井 半世紀も前の話だからね。戦後、活字や娯楽に飢えていた人たち雑誌や本を歓迎し、出版界が活気を取り戻していった時代です。一方、55年には悪書追放運動といって、マンガは悪だと言われた。そこでマンガ編集者たちが集まって、PTAや教育学者たちに向けて雑誌「鋭角」を作ったりしました。その後オイルショックで紙が不足するという危機的状況のなか出版社同士で協力し合おうという気運もあった。この時代の編集者たちは戦友みたいな感じでした。



新人の才能を開花させた
独自のマンガスクール

──初期の時代は描き手も男性でしたが、60年代末、少女マンガの世界に大きな変化が起きますね。新世代の若い女性の作家たちがいっせいに出てきて、それまでの男性作家に取って代わる。
つまり女性の新人作家が大量に登場するわけですけれど、小長井さんの時代に「別マ」を150万部まで押し上げた背景には、「マンガスクール」の創設が大きかったのではないでしょうか。

小長井 その頃「別マ」 は全部読み切りで、毎月10本くらい作品を集めなくちゃならない。ところが当時、週刊誌の時代になってしまったために、男性作家は週刊誌で手いっぱいだし、ベテラン作家は原稿料も高いし、圧倒的に作家の数が足りないんですよ。他誌と同じマンガ家を奪い合っていても進歩はない。新鮮な独自のマンガ家が欲しかったんです。講談社がすでにやっていた新人賞のようなものではなく、もっと即戦力になる、マンガ家志望者とじかにコミュニケーションがとれる、いわばマンガ家養成塾。 若い描き手に紙やペンの使い方といった初歩的な技術面から、テーマの見つけ方などを指導、添削するといったものです。

──このマンガスクールから美内すずえさんや和田慎二さんが育っていって、のちの「花とゆめ」の成功へとつながっていくんですよね。
「りぼん」の方も、一条ゆかりさんともりたじゅんさん、弓月光さんが第1回りぼん新人漫画賞で登場するのが1967年ですよね。一条さんははじめ「別マ」に応募しようと思っていたところ、「りぼん」の賞金があまりに高かったのでそちらに変えたとか。

佐治 賞金20万円だったからね。当時の僕らの給料が1万2-3千円で、集英社の編集者の年収以上の賞金ですよ。

──その後、 一条さんやもりたさんが中心になって、当時は子どもの雑誌だった「りぼん」に新しい風を吹き込み、「りぼんコミック」でも年齢層の高い作品を作っていきますよね。

佐治 山岸涼子さんの「白い部屋のふたり」なんかは「りぼん」にはちょっと載せられないよね。それに読者がついてきてくれたっていうのはあります。 僕は一貫して作家が描きたいと思うものがいいんじゃないか、と言い続けてきた結果、読者が喜んでくれた。



作家の感性が
雑誌を牽引していく。

──1978年に「ぶ〜け」が創刊されますが、これはちょうど入江さんが入社され、毛利さんが「別コミ」に行かれた頃。 白泉社から「LaLa」も創刊され、このあたりから描き手と読み手の距離が近くなった。マンガは子どもが読むもの、というのからちょっと離陸したような気がするんです。

毛利「ぶ〜け」はレベルが高くて羨ましかったなあ。力のある作家が息抜きに描いてるって印象ね。うちは連載主体だったから、読み切りを年に何本も描くってのは相当な才能だと思う。

入江「別フレ」も読み切りが中心。「ぶ〜け」 と「LaLa」は男からみても一番読みやすい雑誌でしたね。いろんなジャンルのマンガがあってそれぞれに質が高くて。これで何をやっても大丈夫なんだと勇気づけられました。

──その頃、少女マンガの範囲がばーんと広がったという感じですね。70-80年代の「LaLa」って分類不能な作品がとても多いんですよ。90年代の終わりになるとジャンルがきれいに分かれるようになるんですが。分類不能な作品が多い雑誌は面白い。

佐治「りぼん」で山岸涼子さんの「アラベスク」を担当しましたが、あれが読者に認められたのは大きかったな。それまでラブコメや学園ものとか、ほんわか路線が女の子の世界だと思っていたけど「アラベスク」は本格的なバレエマンガを打ち出した。それまでもバレエマンガはあったけれど、なにか絵空事だった。登場人物には実際のモデルもいて現実的なマンガでしたね。

──男性作家が描く少女マンガと女性作家が描く少女マンガではどんな違いがあると思われますか?

佐治 やっぱり女性は完全に感性の力ですね。男はそれがないからストーリー構成に走る。ストーリー性という点でいえば男性作家のほうが面白かった。

毛利 でも編集者が面白いと思うのは1/3の評価に過ぎないんです。これは男が読んでも女が読んでも面白い作品。 次の1/3は読者のアンケート上位にくるもの。 残りの1/3が予測不能。ここは女性作家の感性の部分だから編集者には分からないんですよ。特に男性は。

──編集部で面白いと思っても、読 の反応はまた違うということですね。

毛利 そうです。だからといってアンケートに頼って1位の作品をずっと続けていくと部数が落ちるという実例があるんですよ。そういう時は雑誌自体がダメな時期。その場合、思いきってダントツの人気作を切るんです。作家が悪いわけではなく、読者の雑誌イメージがその作品で代表されているので、ほかの読者がついてこない。

──雑誌全体が不調だとトップが切られる。 やっぱり雑誌は生き物だということですね。では、ご自分が仕掛けてうまくいった時、逆に期待と違ったという具体例を教えていただけますか。

入江 編集会議で皆がいいと言ったものはまずダメ。それより1人の編集者が「絶対いい!」と推すものはやってみようと。たとえば、ヒットの条件を組み合わせてマンガ化したとしても、絶対うまくいきませんね。

──平均点はダメ。 何かこだわりと 突出したものがないと……。

入江 作家自身のパッションや思い入れがない作品は、いくら設定を作ってもダメです。

毛利 最初に持ってきた作品がすごく面白くて、そのまま連載作家になる天才肌の人もなかにはいます。通常はプロット、ネーム、下書きと順番に進めていく過程で完成形を想像するんですが、70点くらいなら出してもいいかなと。100点の作品は読者アンケートもいいし、抑えになるんですが、一方で、こちらの想像を超えた120点を出す人がいるんです。雑誌はこういう人が引っ張ってくれる。こうなると男性である私には分からない世界。



新潮流を作り上げた、
“花の24年組”の存在。

──70年代の「少女コミック」というのは、いわゆる花の24年組、それまでの想像を超える少女マンガ作品を輩出したことで有名ですが、毛利さんは竹宮恵子さんの「風と木の詩」のご担当でしたよね。

毛利 竹宮さんとは不思議な縁で、私が最初に少女マンガに配属された「少女コミック」で「風と木の詩」を立ち上げる時に担当し、他誌を回って数年後「プチフラワー」で最終原稿を受け取ったんです。連載1回目は異例の巻頭カラー8ページで、少年同士のベッドシーンから始まりますからね。編集長の英断ですよ。前作「ファラオの墓」で実力を固めて、それまでは掲載が決まると印刷所に一升瓶もって挨拶に行かなきゃいけないくらい原稿が遅かったのに、締め切りも守れるようになって(笑)、満を持してのスタートでしたね。竹宮さんには男を主人公にしようという意識はなくて、「男の格好をした女の子を描いてる」って言われて。女ってよく分からないな、と(笑)。

──「花の24年組」を代表する萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子という人たちが少女マンガの新しい流れを作ったということはよくいわれますね。

毛利 それまでの少女マンガにないものを作ってるんだという感じはありました。彼女たちの描くものは比較的アップが少なくて、舞台も広くて、引きの全身像もよく出てくるんです。そこは他の作品と違いましたね。

小長井 正直、竹宮さんにはびっくりしましたね。こういう描き方もあるのかと。山岸涼子さんや木原敏江さん、三原順さんなんかもそうだけど、男性主人公の流れってありましたよね。同性愛ブームというか、美少年ブームですね。「LaLa」だと成田美名子さんとか、とにかく美少年を描けるかどうかは大事な要素ですよね。

佐治 うちの作家とは(路線が)違うから、あまり意識したことはないかな。むしろ「ぶ〜け」は内田善美さんや水樹和佳さん、吉野朔実さん、松苗あけみさんといった絵の上手い人たちで豪華本を出したりという方向でしたから。

──彼女たちの作品は絵も超絶美麗で美術性がある。一種の芸術ですね。逆に講談社は他社に比べて男の主人公が少ない気がするんですが、あえてやらなかったのでしょうか。

入江 マニアック路線というか作家性の強いものには弱いんです。結果的にストーリーを重視して、作家をコントロールしてしまうところがあって強烈な個性をもった人はやりにくいと思う。



感性重視の一ツ橋、
仕掛けに強い講談社。

──感性は一ツ橋(小学館集英社系)が強いということでしょうか。いっぽう少女マンガのミラクルヒットは実は「なかよし」から出ている。「キャンディ(ハート)キャンディ」とか「セーラームーン」とか。「セーラームーン」は世界的に も大ヒットしていくわけですが、これは意図的に仕掛けていったのですか。

入江 意図的なものはありました。学園ものの対抗としてファンタジーをもっていこう、その先にはアニメ、商品化、世界へもって行くところまで視野に入れてました。それで91年の年末売りの92年2月号で連載を始め、アニメが4月スタート。 マンガの連載とアニメの放送をほぼシンクロさせた形で商品化もやりつつ5年間。

──最初は「コードネームはセーラーV」でした。 読み切りでしたよね。

入江 はい。「るんるん」という読み切り雑誌での掲載でした。それを「なかよし」で連載したのは、戦隊もので育った男性編集者が、女の子が闘うマンガがあっていいんじゃないかと。でも、最初の編集会議は侃々諤々。編集部も半分以上が僕より年上で、女性もいたから「これパンツ見えてるでしょ?!?!「キャンディ(ハート)キャンディ」の伝統ある「なかよし」がパンツ見せるのかっ!」みたいな意見も多くて。

──でも、その作品に賭けたのは入江さんの決断ですよね。アニメも最初の頃は視聴率が悪くて商品も売れず、打ち切りの声があったと聞きました。

入江 時代の雰囲気というか、強い女の子を打ち出したいっていうのはありましたね。たしかに夏頃には視聴率も悪いしやめようかという話も出た。でも、雑誌ではもう考えられないくらいの反響があった。夏休み売りの9月号で、実は主人公が月の王女さまの生まれ変わりですよ、って話を用意していて、ここでやめたらバカですよって言ってるうちに視聴率も上がり、年末には「ムーンスティック」が売れに売れ る大ヒットとなるわけです。

──雑誌の読者のほうが反応がヴィヴイッドだったってことですね。



同期生
一条ゆかり/もりたじゅん / 弓月光
一条ゆかり、もりたじゅん、弓月光による新書。 「第1回りぼん新人漫画賞」入賞者3名が、マンガ家人生を綴った。 (集英社)


『別冊マーガレット』マンガスクールの当時の景品。
左:マンガスクールでは、優秀な人には景品をだしており、そのひとつがセルスケール。 マンガ家を目指す人たちに必要なアドバイスが「別マまんが家十訓」 として書かれている。スケールサイズも別マ本誌と同等だった。


『イティハーサ』水樹和佳
人気のロングセラー作品、 水樹和佳によるSFマンガ。当時の女性向けでは珍しく、男性でも読みやすいのが特徴。(詳細はP64)
絶版。(文庫版が早川書房から発売)


『花とゆめ』創刊
白泉社 (1974年6月号)
『りぼん『の下の年齢層に向けた白泉社の初代少女マンガ誌。「花」と「ゆめ」の2語を「と」でつなぐユニークな名前で注目を集めた。


『LaLa』創刊
白泉社 (1976年9月号)
創刊当初は、ほとんどが読み切りだった。 美内すずえ、和田慎二、大島弓子など有名な作家が名前を並べ、人気を博した。


『りぼんコミック』
集英社1967-1971年
小学生向けの『りぼん』から派生。 中高生向けに内容を大人っぽくした。『non-no』の創刊にともない、廃刊の憂き目をみることに。


『星の時計のLiddell』内田善美
想像力をかきたてる名作として、支持された内田善美の代表作。やや哲学的な内容のほかに、美術的な美しい画力にも優れていた。
絶版。


『風と木の詩』連載スタート 竹宮恵子
『週刊少女コミック』1976年10号 小学館
連載スタート時は巻頭カラー8Pで、少年のベッドシーンからスタートするという、当時センセーショナルな作品で瞬く間に人気に。


『きんぎょ注意報!』テレビ朝日系列
当時『なかよし』で連載していた『きんぎょ注意報!』。放送終了後、同じ枠でできるアニメを考えていたところ『セーラームーン』の連載とシンクロさせることに。


『美少女戦士セーラームーン』武內直子
コミックは1巻につきおよそ200万部を売り上げ、 1993年9月号の『なかよし』は過去最高部数を叩き出した。強い女性を描きたかったという作者の構想は時代とマッチ。戦う美少女は、ファンタジーと恋愛を網羅。アジアやヨーロッパでも人気だ。


美少女戦士セーラームーン
ルナのぬいぐるみペンケース&ステーショナリーセット
1993年4月、5月号の全員プレゼント。2号連続で買わないと申し込めない仕掛けだったが、応募数は78万人という全プレでは驚異的な数字に。ほかに、
弁当箱セットなどセーラームーンだけでも多数プレゼントがあった。


美少女戦士セーラームーン
ムーンスティック
セーラームーンが必殺技を使用する時に使うアイテム。 電池で光るギミック付きで、別売りの「まぼろしの銀水晶」と連動しており、パーツを取り付けて遊ぶことも可能とあって60万本売れた。\3,300/バンダイ


『美少女戦士セーラームーンR エクセレントドール』
武内直子監修による、全長50cmの彩色&組み立て済みフィギュア。シリアルナンバー付きプレミアムカードや専用のディスプレイスタンドが付いている。\9,800/バンダイ



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