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【光瀬龍:『地球…』と少女マンガにおける今日的問題】

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本誌もくじ表記:「『地球へ…』と少女マンガにおける今日的問題」
記事ページ表記:「『地球…』と少女マンガにおける今日的問題」
当該項目のタイトルは記事ページ表記に倣いました



キネマ旬報1980年5月上旬号(785号-通巻1599号)
発売日:1980年05月01日
出版社:キネマ旬報社




キネマ旬報1980年5月上旬号66-67ページ
『地球へ…』特集2
『地球…』と少女マンガにおける今日的問題
光瀬龍
(図版に続いてテキスト抽出あり)





『地球…』と少女マンガにおける今日的問題
光瀬龍



 

少女コミック誌にとって、SFマンガはあまり歓迎されないようだ。編集者の言によれば「読者が好まない」というところらしい。

実際、少女マンガ家たちから、SFマンガを描かせてほしいという要求があっても、何年か前なら、多少ともその要求を容れもしたが、今では全くSFマンガを誌面から追放したといってよい。

SFマンガを掲載するもしないも、それは雑誌の編集方針であるから、他者の口を出すべき筋合いのものではないが、現今のSF出版物の傾向と、読者の好みの流れとから考えて、少女コミック誌におけるSFマンガを、ほんとうに読者が《好まない》かどうか、これはかなり複雑で、かつ深刻な問題である。

最近の少女コミック誌には、さすがに往年の『母子草』的おなみだ丁戴マンガは姿を消したものの、時おり、シンデレラものや、スポコンものにその残滓が亡霊の如くあらわれる。現代の女子中学生や女子高校生がどのような思想を持ち、生活態度を持っているかは、少女マンガ家の方は先刻ご承知であろうが、編集者の方となるとかなり怪しい。シンデレラ願望や初恋ロマンは、いつになっても変らないというのは、少女雑誌作りの編集戦略としてはつねに真実である。しかし、それはあくまでも素材としてなのであり、戦術としての具体的なストーリー展開となると、これはよほど読者の好みの変化、思考の変化をくみとり、即応してゆかねばならないだろう。


 

最近、SF出版は非常に活発だし、営業的にもそれなりの成績を上げているようだ。

このことについて、まずちょっと触れると、SF雑誌や単行本が売れるようになったわけは、SFの浸透にともなう一般的な読者人口の側からする自然増と、女性読者の急増という二つの点が上げられよう。

前者は本質的に不特定多数であり、傾向はつかみにくいというよりも、恣意的に過ぎ、一過性が強く、マニアとなって特定の作家の読者となって定着することが少ないから、営業的に的をしぼりにくい。問題は後者である。これらの読者は、スペース・オペラとジュビナイルの主要分野たる学園SFに集中的に多い。フランク・ハーバートの『砂の惑星』、筒井康隆氏の『時をかける少女』などにその例を見ることができる。若い女性読者の好みは、もちろん男性の好む所とは質的に異っていることは当然だが、広くSFジャンル内で見る限り、かなり共通したところがある。

ことに注目すべきことは、これまで、SFというものは男性の読み物であり、女性は感覚的に受けつけ難いとされていたのが、意外にそうではなく、宇宙的な時空概念や、いわゆるセンス・オブ・ワンダーに対して、積極的な興味を抱くようになってきたということだ。

今では、かなりマニア好みの長編SFでも、年若い女性読者が、十分に読みこなしてくれる。てっとり早く、私自身の作品で言えば、『百億の昼と千億の夜』 の感想文を寄せてくれた女性読者の内、最年少は小学校六年生であった。最近ある女性読者の語るところによれば、彼女 は小学五年の時に読了したという。ほぼ意味を汲めたということだから、なかなかのものである。というのは、この『百億の昼と千億の夜』は、およそ読者サービスからは縁の遠い、マニア向きの長編であり、相当にSFを読み馴れている読者でないと、ついてゆけない態のものであった。

だから萩尾望都氏によってこれがマンガ化された時、激烈な讃否両論が巻き起ったのは、女性読者の間で、この物語がすでにそれぞれに自分のものとなって十分に納得されていたことを示している。

同じことは、他のSF作家諸氏の作品群についても言える。

このことは、よくいわれるSF読者の低年齢化ということが、すなわち読者の質的低下を意味していないことをも示している。


 

同じことはビジュアルな分野に関してもいえることであり、今、ひとつひとつその作品例をあげることは避けるが、内容的にかなり高度なものが多くのマンガ 読者によって支持されている。もとより、知的満足を与えてくれるものがすぐれた作品であるなどということはないが、創造的意欲に満ちているかどうかはその作品の本質的評価を決定する。だから何もSFマンガが他のジャンルのマンガに比べて創造的であり、より劇的である必然性はないが、作家の精神領域内の問題として、新鮮かつ刺激的な素材であるとはいえる。それは描き手にとって も、読み手にとっても、期待できる世界である。

手塚治虫氏によって、SFマンガがマンガ界の陽の当る場所に導き出されて以来、多くのSFマンガ家による数多のすぐれた作品が発表されてきた。そして萩尾望都、竹宮恵子氏らの少女マンガ家によるSFマンガの秀作が生れてきた。

二氏とも、SFマンガを描く以前から、多数のファンを持っていたから、SFマンガという新しいジャンルに冒険をこころみることが可能だったし、雑誌としてもその作家的要求を容認せざるを得なかったのだというかげの事情を説く人もいる。だから新人にはとても望み難いことだったし、今日に至るも少女マンガの分野において萩尾望都、竹宮恵子、山田ミネコ氏らにつぐSFマンガの描き手はあらわれていないのだという新人の言葉を聞いた。

つまり、そこでは初恋ロマンスや外国ものの家庭内事件。オカルトに名を借りた因果ものなどに、雑誌の人気をつなごうとする無気力なパターン化が慢性的に進行するのみだった。


 

現在少女コミック誌の直面している不振はかなり深刻なものがある。古舗は落ちこむし、新顔は伸びなやみで苦しんでいる。誌面によほど新風を吹きこまぬ限り、事態の改善は望み得べくもない。ことは、つぎつぎと送り出される新人の能力の問題ではなく、実は企画あるいはそれ以前の問題である。

少女マンガ界のトップ・リーダーたちによるSFマンガが、少女コミック誌でなく、つねに少年誌に発表されてきたという情況は極めて象徴的である。それゆえにこそ、今では少女コミック誌が、傘下の描き手をSFマンガから隔離しようとするのかもしれない。少女コミック誌 にとって、SFマンガはタブーであるともいわれる。

けだし言う。そうした情況の下で生れ育ってきた幾多のSF作品群が、急速に容器である少女コミック誌に余り、既成の少女マンガをのりこえてきたのは、時代の流れを背景にした、少女マンガ家たちの怨恨の所産であったとも言えよう。

『地球へ…』の成功のかげに、少女マンガ全体が置かれている今日的状況と、その内部における一人一人の作家の、模索と、絶望と隣り合わせの不断の努力があったのである。

[SF作家]



キネマ旬報1980年5月上旬号

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