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【西谷祥子:時代の中央線を歩け】

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別冊太陽〔少女マンガの世界2〕昭和38年-64年
出版社:平凡社
発行日:1991年10月17日




「別冊太陽〔少女マンガの世界2〕」32-33ページ
時代の中央線を歩け
西谷祥子
(図版に続いてテキスト抽出あり)





時代の中央線を歩け
西谷祥子

私は“少女マンガ”は、月刊誌時代、週刊誌時代、そして、現在の、脈絡なく肥大し、各ジャンルの区切りの判然としなくなった時代の三つに分けて考えてもよいのではないか、と思っている。

それは、母子がテーマだった時代、友達間がテーマだった時代、肉欲の処理をテーマにする時代、という分け方をしてもうなずけるが、だんだんと、より個人の内部に、少女の目がもぐり込んでいっている過程、かもしれない。

特に、ここ10年の特徴といえば、TVのおかげで早熟になってしまった子供達の脳髄に、すでに、人生の全てが(上っつらのみにしろ)大人並みに並存するが故に、少女向け、少年向け、大人向けの区切りがあやふやで、一冊の少女誌に(あるいは少年誌に)少女マンガ風あり、少年物風あり、青年向きあり、成人好みあり、の混沌の世界を抵抗なく受け入れうる読者が現れ、また、描き手も不自然だと感じなくなっている、ということであると思う。

時代の転換期は、思いがけない時にやってくるのが常だけれど、刺激の法則に従って考えてみるなら、TV界や他のメディアのように、バイオレンスとSEXのまっただ中で、よりグロに、より過激に、自由とやらを求めて、つき進んでゆくのかもしれないが、人体解剖も、骨まで至れば、後は大して興味の沸く所もない道理で(専門家は別だが)、その後は、硬直化し、ダラダラと同じ風景の続く時代に入るのかもしれない。



それで、味けないから昔を考えると、私がまだ少女の頃、実は少女マンガなんてものは、あんまりなかったような気がするのだ。すでに、少女向け月刊誌の三、四冊はあったはずなのに、印象は、ほとんど無い。

逆に、少年向け月刊誌の印象が、何だか大きく残っている。

父と母と、兄が二人。私は末っ子で、たった一人の女の子で、可愛がられて、ずい分と居心地のいい立場だったが、三対二の力関係上、取り込まれる文化は男性寄りの物が多かったようで、少年雑誌は、早くから家にあった。

父と長兄が、絵の上手い人で、当然私は、その影響下にあった上に、当時の少年雑誌は、確かなデッサンの美しい絵と、しっかりした構成のストーリーと、メッセージを持つ、そういう漫画や、絵物語で溢れていた。そう、例によって、手塚治虫先生。それに、山川惣治、小松崎茂先生方。

明るい夢と、探究心。未来や世界は、無限の未知。可性性へのあこがれは、幼い者を満たさずにはおかなかった。

おかげで、文字にも強くなって、私の学園生活は、クラス委員で始まったのだから、雑誌といえども、バカにはできなかろう。

小学校も高学年になると、人並みに「赤毛のアン」につかまって、私は、初めて自力で夢を達成しようとする少女に物語の中で出会い、その勇気に感心した。アンとの出会いがなかったら私の感覚は、少年文化志向のままで、少女を描いても中性的な性格づけをしたかもしれないのだ。

そんな頃、貸本屋で、「トキワ荘グループ」の先生方の、一連の作品に遭遇した。

手塚先生は、超一流で、神のような存在だったけれども、「トキワ荘グループ」は、今少し近い感じだった。中でも、そう、石森章太郎、水野英子、両先生の作品が、私の感性に、何だかぴったりとくるのだった。

実は、その頃、トキワ荘グループは抬頭期だったのだろう。新鮮で、目の離せない感じだった。

中三の時、手塚先生に、四コマを送って、作品をみてあげる、というお返事をいただいたが、気おくれしている頃、トキワ荘グループで「えくぼ」という単行本がでた。その内容に、抗議の手紙を送ったことから、同グル ープで構成する漫画研究会の女子部に誘っていただけた。第二か、第三号から、編集も女子会員との連絡も、全て私がやる事になった。おかげで、諸先生方とのお目通りも許されて結構楽しい時代であり、かつ、その会誌を見た「少女クラブ」から原稿の依頼もいただけた。

会誌の第一回作品と同じ『ふたごの天使』が夏の増刊号に出て、成績がいいとかで、そのまま連載になった。勿論、まだ私は、高校時代のどまん中だった。

そして、出版界は、やがてくる週刊誌時代の仕度を始めていた。

『リンゴの並木道』を携えての二度目のデビューは、「マーガレット」からになった。週刊誌なので、それまでのように親もとにほんわりと居るわけにもゆかず、私は上京した。そして、ディズニーや、手塚先生の流れの中で、石森、水野両先生の間に、勝手に生れた私製(生ではない)児と、自らを位置づけていた私も、時代にのまれ、多忙の中に、自らを失う日々に、のめり込んでゆく。

少女マンガ界は、週刊誌時代になって一新し、新しいエネルギーが若く勝れた新人を呼びこみ、ようやく「人間としての少女」が、画面にも現れ始めていた。

水野先生のロマコメの、生々した青年男女は、ブームをおこしただけあって、実に新鮮で楽しかった。しかし、すでに、前述したヒューマンコメディ『リンゴの並木道』の好評で、読者の若さを実感していた私には、自分の方向にそぐわない気がして、それで、主人公の年齢を下げて『マリイ・ルゥ』を描いたら、やはり、評判が良いのだった。

それではと、自らの学園生活を下じきにし、しっかり、知人や、友人の誰かれをモデルにおいた『レモンとサクランボ』を描いて、これは、多分、大当り、だった。

時代は丁度、高度成長期で、豊かになりつつあった家庭に、もはや、冷たい世間の風は吹かず、少女達は安心して、学園生活に浸っていたのだろう。等身大の少女が“友達”として画面の上で笑っていて、学園生活の楽しさを(実際、私には楽しかった)謳っていたのが、受けいれられたポイントであったろう、と思う。

後に私は、強制的にでなく、自らも楽しみながら、この路線を多く描いた。勿論『マリイ・ルゥ』のラインも、マニアとしての自分を満足させるためのSFも、時代物も、ファンタジィア物も、絵物語も描いたから、一時は、風呂にも入れない生活を仕方なく送った。何がなくとも、描いてさえいれば幸せな頃で、週刊誌二本、月刊誌三、四本、月産三百〜四百枚という時代も、この頃に体験し、それは10年以上、続いたのだった。

学園物の路線は、後に、多くの類似作品を生みつつ、より沢山の作家と、より多くの内容のバラエティー(バイオレンスや、サド、マゾ・SEXに至るまで)を加え、肥大、かつ拡大しつつ、今も華やかに、少女、少年漫画界を被っている。

しかし、高度成長期も終り、社会が、爛熟期に入ってから、少女達の心にも、物質文化が、へんにべったりと張りついてしまい、不必要だとしか思えない朝シャンや、高価な靴等に注意が払われ、少女漫画誌上にも、物質至上主義の女の子が現れて、何だかぞっとする事が多くなった。

現実に、親達が過剰に与える時代なのだから、少女達は、きっと素直に、反応しているだけなのだが、生活は、親の保護下に居る者が、行動では、親をあざむき、馬鹿にしている風が画面にあるのは、つらい見ものだと感じた時、私は、ふと、自らの足跡をふり返ってみる気になり、上京してから二〇年間を、浦島太郎のように、夢の間に、しかもぬくぬくと過してしまったのを、やっと自覚してあわてたのだった。

大学は途中だし、手に入れた資格はまだほんの四、五種類。配偶者すらそばに居なくてこれで満足な人生といえるか。私は、大あわてで、学歴や、夫や、けいこ事等をあれこれ手に入れつつ、漫画界に浸りすぎていた生活を少し客観視してみる時間が必要だ、と感じていた。

はいてしまえば、死に至るまで踊りつづける赤い靴も、意志さえきちんとして使えば、豊かな人生の糧とできる。私は、自分は客席に居ながら、踊り子が死ぬまで踊る様を、拍手しながら眺めていられる観客の冷酷さが、嫌いだった。

皆が楽しみつつ、かつ、生きる方法が、どこかにある。



時代も川も、何時までも流れてゆく。バイオレンスとSEXを売り物にし始めた世界に明日はない、といわれるが、私は、漫画が好きなので、やっぱり皆から、漫画は素晴らしい、といわれたいと思っている。

そしてまた、自分が描くなら、健全な世界であり、今のように、漫画関係者が、他の社会から蔑視されなくても良い方向をさぐりたいと思う。

勿論これは、成長期の漫画界の「古き佳き時代」に住んだ、「運の良すぎた者」のたわ言としか聞かれないだろう、と思いつつ、やっぱり、そんな力が私にも欲しい、と願ってみる。

私は、正に、漫画の底力をこの目に見、かつ、信じてきた者の一人であり、こう願うのは、私一人ではないかもしれない、とも、考えてみているのだ。

(にしたに・よしこ 漫画家)




別冊太陽〔少女マンガの世界 2〕】1991年10月01日
 【別冊太陽〔少女マンガの世界2〕もくじ】
 【西谷祥子:時代の中央線を歩け】
 【ささやななえ:三つの衝撃】
 【進化するSF少女マンガ】

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