5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

【石田美紀・竹宮惠子:密やかな教育】
竹宮は2000年に京都精華大学マンガ学科の教授に就任、これはその6年後、竹宮56歳の時のインタヴュー
本書において「インタヴュー」と表記されている

【「密やかな教育〈やおい・ボーイズラブ〉前史」】

出版社:洛北出版
発売日:2008年11月08日

聞き手:石田美紀
インタヴュー日時:2006年09月09日
インタヴュー場所:さいたま市立漫画会館
竹宮惠子(56歳)


【「密やかな教育〈やおい・ボーイズラブ〉前史」】280-292ページ

耽美は溺れるものではなく、するもの
竹宮惠子


名づけられないもの

Q『雪と星と天使と…』(一九七〇年、後に「サンルームにて」と改題)、あるいは『風と木の詩』(一九七六-八四年)をお描きになったとき、「耽美」という言葉は意識されていたでしょうか。

竹宮 当時は「耽美」という言葉そのものは意識していなかったです。ただし、『風と木の詩』の話じたいは『雪と星と天使と…』を描くときにはすでに誕生していましたので、あの世界と共通するものを描こうと意識していたことは確かです。
少年じたいに美しさを感じていたことは事実ですが、それは現実にある少年とは全然ちがうものとして何かを意識していたと思います。が、それがいったい何なのか、その正体がわからずにいたわけです。自分の描きたいものがそれだと確定したのは、『風と木の詩』を描こうとしたときで、その前ははっきりとしたものはなかったですね。
「耽美」という言葉がどこから日常的に使われるようになったのかは定かではないですが、稲垣足穂の『少年愛の美学』におそらく出てきたのではないでしょうか。「耽美派」なんていうものがあるなんて、わたしの知識にはなかったですし、意識もしませんでした。自分のアンテナに引っ掛かったからで、「耽美」という系統を知識としてもっていたわけではありません。プロデューサーであり、マネージャーであった増山[法恵]からいろいろ聞いているうちに、なんだかわからないけれどもすごいらしい、と。こういう説明しがたい美を「耽美」というらしいという認識ができたと思います。


ヨーロッパを舞台に選んだ理由

Q『風と木の詩』の舞台は一九世紀末のフランスです。

竹宮 それは現実から離れなくては、という意識があったからです。舞台が日本だと、とても生々しすぎてダメだろうと思いましたので。
まだまだあの頃は、外国に対する憧れが強かった時代です。ハリウッド映画時代みたいなのは終わっていて、別のものを模索していたときですよね。ヨーロッパを特集する雑誌がすごく多かった。それに、「耽美」という言葉の始まりはやっぱりヨーロッパでしょう。だからそこに行くのが正しいかな、と。ものの本をいろいろ読んでいるとやっぱりヨーロッパが出てくるわけで、そういった資料が欲しくてどうしてもヨーロッパに誘われてしまったのではないでしょうか。

Q 萩尾[望都]先生もヨーロッパを選ばれていますね。

竹宮 あの時代はみんながヨーロッパを向いていた時代です。知らない世界として、とても興味がありました。ハリウッドの世界は知っている。ハリウッドにもヨーロッパは出てくるのだけれども、ハリウッドとは違うものらしい(笑)と思っていました。ヨーロッパにはやっぱり、過去がしっかりありますから、歴史がそこには眠っているという感じがありました。そういうのを含めて知りたい、と思い、シェイクスピアやなんかへと至るというか……。

Q ヨーロッパ映画は積極的にご覧になりましたか。

竹宮 最初はハリウッド映画でしたね、日本にはたくさん入っていましたから。それで好きなものを選んでいくと、ヨーロッパっぽいものになるというか。たとえば、クロード・オータン=ララ監督『赤と黒』(一九五四年)だとか、歴史を感じる背景が入っている作品ですね。新しいものではクロード・ルルーシュ監督『男と女』(一九六六年) とかね、そうした作品の背景には、アメリカとは全然違う説得力があると思っていましたから、『風と木の詩』とヨーロッパはすんなりと結びつきました。
いちばん最初に『風と木の詩』を描こうと思った時点、『少年愛の美学』を読んだ時点で、 わたしの描こうとしているものの正体をはっきりと確信したわけですが、イギリスのパブリック・スクールが『少年愛の美学』によく出てきましたよね、だから『風と木の詩』の舞台はパ ブリック・スクール的な場所にすると、一番に決まりました。ただし、国はイギリスではなく、フランスにしました。イギリスのパブリック・スクールはシステムそのものが決まっていて、歴史がありすぎるので、フランスを選びました。それに、わたし自身がフランスという国を好きだったのもありますし。イギリスの気質がそれほど馴染めなかったというか、フランスのほうがもっと奔放なところがあるので、自分の性質にあっているほうを選びました。で、ちょっとパブリック・スクールなかたちを持ち込んで。そこから学校制度をいろいろ調べはじめまして、実際とあっているかどうかはともかく、材料にしましたね(笑)。

Q 先生の一連の作品は、ローティーンの女の子にヨーロッパの魅力を実際以上に教えてくれました。

竹宮 マンガっていうのはそういうものです。そもそも周りの流れ、社会の動きを汲み上げるものですよね。気運そのものを織り込んでいくのがマンガなので。ですから、わたしがそうしようと思ったわけではなく、その気運に呼応しないとうまくいかない、自分の言いたいことが伝わらないので、その時代の空気を読んで作っていきました。


『風と木の詩』のディテールとヨーロッパ経験

Q 七〇年代から先生はヨーロッパに行かれています。文献で調べられたヨーロッパと現実に経験されたヨーロッパは違いがありましたか。

竹宮 ヨーロッパには毎年のように行っていました。『風と木の詩』が描きたかったので、ヨーロッパの生活が知りたいと思ったのです。石畳の生活って何だろう、暖炉の生活って何だろうって、日本にないからわからないのです。
ゲーテハウスに行ったときに、井戸の汲み上げのシステムが違うことを知ってびっくりしました。引き上げ式でバケツを入れてっていうのは日本にもあるのですが、都市生活を送っていた人の当時の便利な生活で井戸がどう使われていたのかは行ってみないとわからなかったです。こう、揺するだけでね、水が汲み上げられるんですね。あ、こんなシステムなんだって、一所懸命に写真を撮りました。作品に使うことはあんまりなかったですけれど(笑)。瓦が舌のようにまあるくなっていて並べられているとか、小さな家に行かないとそばで見られないですし。そういうものを見に行きました。壁の厚さとか。窓から顔を出したら、一番外側の壁が日本とは全然違っていて、三〇センチくらいの厚みがありました。だから最初の旅行のときの写真なんて、すべて資料写真です。ドアの開き方を知るために、写真を撮ったりして。

Q 石畳の感覚の描写が本当に素晴らしいです。

竹宮 そうですね、アシスタントに石畳の写真を見せると、形は描けます。でもあの石畳の深さ、地面に顔をつけるようにして見るとかなり深くて、文字どおりの立方体が組んであることがわかりますが、それを描いてと言うには、知らないと言えないでしょう。だからアシスタントも連れて行きました、見ていないとわかりませんから。

Q こと細かに観察されてきたわけですね。

竹宮 それを再現したいと思いましたから。そこにある歴史を感じられないような描き方をしてはダメ、と思っていたので。自分が感じたものをできるだけそっくりそのまま伝えたい気持ちがありました。

Q『風と木の詩』は非常に現実離れした世界でありながら、いっぽうで人の息まで感じられるリアリティが魅力的です。

竹宮 冬のあの寒さも行ってみないとわからないですしね。調べようというより、感じたいと思って行ったわけですが、描くものが変わりました。『雪と星と天使と…』を描いていた頃とまったく違います。『風と木の詩』を描けるときのために、いろいろ集めてまわっていました。


援護射撃としての 『JUNE』

Q『風と木の詩』の連載が始まって二年後に、『JUNE』が創刊され、先生も参加されています。そこでは「耽美」というキャッチ・フレーズが打ち出されたわけですが。

竹宮 それを目論んだのはわたしではなくて、『JUNE』を作った人、編集長の佐川[俊彦]さんです。むしろわたしは渡りに船だな、って。『風と木の詩』の援護射撃として、そういう本があることはいいことだと思いまして、積極的に参加することにしました。

Q もの凄くお忙しい時期に、表紙も毎号描かれています。

竹宮 ええ、もう流れを作るしかない、と思っていました。『風と木の詩』があまりにも変な話だったので(笑)、受け入れられるか本当に心配でした。嫌われるか、好かれるか、どっちかしかないって思っていたので、当然好かれるためなら何でもしますって(笑)。結局数に頼むってことをしないといけないなと思って、世の中にそういう本を作ろうという動きがあるなら、絶対協力するしかない、というわけです。

Q ご自身の描きたいものを受け入れてくれる読者を育てていく、ということですね。

竹宮 ええ。啓蒙するという意味もあってやり始めたとは思います。でもそのベースを作ろうとした人のほうが凄いんじゃないですか?


中島梓との共同作業「ジュスティーヌ・セリエ」作品

Q 中島先生が「ジュスティーヌ・セリエ」名義で『JUNE』に発表された小説にイラストを添えられています。中島先生が覆面で書かれるというのに驚かれましたか。

竹宮 いいえ、そんなことはなくて、自分がイラストを描ける作品であれば、問題なかったです。もちろん内々ではみんな中島さんだと知っていましたし、内容的に信用もありましたから。

Q 「薔薇十字館」にはセリエのプロフィールまで付けられているわけですが。

竹宮 それは作家の方の憧れらしいですよ。別の人のフリをしてみるというのは。違う名前で違う人になれるわけじゃないですか、文字の世界であれば。マンガはね、絵というのは見ただけでバレるので、簡単には騙せないですね。文章は肉筆ではなく活字で出るので、できますね。

Q「ジュスティーヌ・セリエ」作品もヨーロッパが舞台です。先生のイラストと相乗効果で、妖しい世界が演出されていました。中島先生が書かれた文章を読まれて、イラストを描かれたのですか。

竹宮 はい。ああいうおどろおどろしいものを描くのは得意というか、自然に描けるというか、そういう感じです。わたしとしては表現可能なタイプだと思います。でも、じゃあ自分が生み出すかといえば、精神的に無理です。わたし自身は実は「耽美」的な人間じゃないんですよ(笑)。

Q「薔薇十字館」についての読者の感想に、「先生の世界にぴったりだった」というのがあるのですが、それが先生の世界だと考える人が当時の読者には多かったのでしょうか。

竹宮 当時、「耽美」そのものを流行らせようとしていましたから、その感想も疑ったほうがいいかもしれませんよ(笑)。今から思えば、怪しいかも(笑)。佐川さんとしては、中島さんとわたし、というカードを二枚もっていて、それをどう使うか、ということでしょう。

Q『JUNE』全体を「耽美」というトーンで染めようとされていたわけですね。

竹宮 ええ。でも、『JUNE』そのものは、むしろ中島さんのほうによったタイプだったのではないかしら。中島さんは〈ワセダミステリクラブ〉で、佐川さんもそうです。そのラインから生み出された雑誌で、わたしはそれに相応しいということで、中島さん経由、あと『バラエティ』創刊時の担当者、秋山協一郎さん(こちらもワセダミステリクラブです)、この方を経由して、執筆メンバーとして呼ばれたわけです。

Q 非常に凝ったイラストを毎号表紙に描かれていますが、本当に『JUNE』の目玉中の目玉でした。

竹宮 表紙を描けば、本誌に自分があまり描けてなくても、アピールできますし、表紙を持つということは普通の雑誌ではなかなかできないことですので、お引き受けしました。それは増山の意見でもありました。


「耽美」 は 溺れるものではなく、するもの

竹宮「耽美」という言葉は、美に耽るということですよね。あるカウンセリングの先生によれば、美とかアートとかは、病気らしいのです。わたしは、ああその通りって、納得しました。病気でないとできませんよ、って言われたのですが、それに溺れるということだから、病気から治りたくないってことなんじゃないのかな。そうしたものをわたしは質として体にもっているので、今さら溺れようとは思わなかったです。『血と薔薇』なんかがあるのは知っていましたが、熱心に傾倒しようとは思わなかったし、他の健康的なものにも興味がありました。
あの頃わたしは児童マンガっぽいもの、たとえば「まほうつかいの弟子」(『週刊少女コミック』 一九七三年、五号) などもたくさん描いています。わたしには多分に手塚治虫的な部分もあります。子どもというものにいまだに興味を持っていて、そこから外れたくないというのもあります。健康的な部分を捨て去る気にはなれないです。
中島さんのほうが、積極的に溺れたかったと思います。江戸川乱歩賞もお取りになっていますし、そこに嵌まらないといけないとも思われていたのではないでしょうか。
わたしにとっては「耽美」はするものであって、自分がそこに溺れるものではなかった。でも、どうやったら「耽美」になるかっていうのは、よくわかっていたので、悩まずにはすみました。ツボはここだっていうのは (笑)。


ゲームではなく──BLとの違い

Q「耽美」はテクニカルなレベルにあるものということですね。そのツボはどのあたりにあったのでしょうか。

竹宮 うーん。それもね、時代とともにあるので。今はちょっとわたしには押しづらいツボですね。あの頃からすでに「お耽美」とも言われていましたよね。「お耽美」と言う人は、「耽美」を日常化したい、ゲームにしたい人たちです。ゲームになったらツボじゃない。もっと安全なところで楽しみたいということですよね。危ないと知りつつ、そこに踏み込む人になにかを与えるということとは違います。そういう意味で、今の人のツボには嵌まれない、というか、押してあげることはできないなって。危ないところを承知でわざと歩きたいというのは、積極的な欲なんですね。読者も真剣なんだから、こっちも真剣、真剣勝負ができる舞台だったと思います。そして、そこでしか言えない真実の一言を言いたくてやっていました。特殊な舞台でしか言えないことってありますよね。日常化してしまうと、それってもう要らない言葉なので。

Q 現在書店の一角を占めているBLと、先生の作品の違いはどこにあると思いますか。

竹宮 今のBLのなかでは私は言いたいことは言えませんね。私が言いたいこと(好きな文化、好きな言葉、好きな真実)を言うために、JUNEという舞台はあったので。BLのほとんどが痴話ゲーム、何かを主張する(伝える)というよりはサービスだと思います。でも、よしながふみさんはその中でも言いたいことを言っているなと思います、あの舞台でそれが言える人なんですね。


後進の指導

Q『JUNE」誌上で「お絵描き教室」を開講されていました。現在は大学で教鞭をとられているわけですが、教えるということは先生にとってどのようなものですか。両者の違いなどありましたら、お教えください。

竹宮 教えるということでは、『JUNE』でも、大学でも一緒です。相手が知らないことを伝えるという意味で。ただ『JUNE』そのものがものすごく高度なところにありました。つまり、セクシュアルなものを語るというのは、表現においてとても高度なことなんです。
いっぽう、関心も、経験もそれぞれの、いろいろな人が来る大学という場では、マイナーな部分の話はできませんから、学生の方がアプローチしてくるのを待つしかありません。それが不自由ですね。『JUNE』に来る人は、すでに自分の欲望をしっかりもっているので、表現だけを問題にすることができます。『JUNE』の読者の根には文学が存在し、映画に関しても知識があり、一応のものを揃えたうえで、じゃあオリジナルで何を表現するのか、という人たちでしたね。大学で教えるということは、もっと基礎的なところからで、表現者になりたいという欲望もまだ固まっていない人もいますから。『JUNE』の読者はいじらしいような表現欲をもっていました。

Q『JUNE』のコーナーから西炯子先生がプロになられました。

竹宮 西さんは本質的にすごくいいものをもっておられたのですが、絵における表現力がまだまだだったので、それだけを徹底的に突っ込んで批評しました。投稿数は、読めないような作品までいれると、月に五〇くらいはきていたと思います。西さんみたいな人は滅多にはいないのですけれど、そういう人を発掘するのが楽しみでした。

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