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【増山法恵:出会いと始まり…徒然なるままに】

資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/164353...



「竹宮惠子の世界展」目録に寄稿

竹宮惠子の世界展:2006年01月07日(土)-03月03日(金)
竹宮惠子の世界展:徳島県立文学書道館 2006年



出会いと始まり…徒然なるままに
小説家
音楽評論家
増山法恵
(図版に続いてテキスト抽出あり)





出会いと始まり…徒然なるままに
小説家
音楽評論家
増山法恵

「竹宮恵子さんと、初めて会ったときの印象は?」と質問されることが多い。残念ながら、"初めて会った瞬間"のことは、どうしても思い出すことが出来ない。ただ「同じ年齢なのに、ずいぶんお洒落な子だな」という印象を受けたのは覚えている。何故なら当時の私はまったくお洒落に興味がなく、パーティーであろうとコンサートであろうと、どこでも着る服は学校の制服で通していたのだ。最近になって竹宮に「あなたは、私のことをどう思ったの?」とかねてみたら「東京の子って、みんなこんなに知識が豊富なのかと驚いた」という返答だった。これは少し竹宮に誤解がある。 "東京の子がみんな…"ではなく、おそらく当時の私がかなり変わっていたのだと思う。ファッション等に興味を持つ年頃に「洋服やバッグにお金を使うくらいなら、本を買いたい、素晴らしい演奏会に行きたい、映画を見たい、レコードも欲しい…」という訳で、お洒落に費やすお金も時間も無かった、というのが正直なところだ。本とレコードが山積みされた部屋で、日々 私はピアノの練習に励み、竹宮はグランドピアノの下に寝そべって絵を描いていた。これって竹宮の作品に出てきそうなシーンではないかな。

竹宮惠子の名を知ったのは、コアな漫画雑誌「COM」である。新人の作品応募のコーナーで、彼女は常に優等生だった。掲載された作品「かぎっ子集団」を読んだ印象は、雑誌の性格を見抜いた物語り構成という点に感心した。彼女は十代にして、どの雑誌にどのような方向性の作品を描けば入賞するか、を読み取る能力を持っていたのだ。良く言えば天才的な職人性、悪く言えば冷静過ぎるほどの判断力は、その後の彼女の作家性に様々な影響を及ぼすことになる。この優等生的新人作家を「頭のいいヤツ〜!」とは思ったが、絵にもストーリーにも芸術性を感じなかったので、あまり興味は抱けなかった。当時の私は、かたくななまでに「芸術至上主義」を貫いており、娯楽性に優れた作品よりも、アーティスティックな作品を好んでいたのだ。小学生の頃から、音楽でも文学でも映画でも絵画でも、超一流の芸術と触れ合うことこそ人生の最高の喜び…という考え方の生意気な女の子(親の教育のせいかな?)だったので、さぞや竹宮も「変なヤツと出会ってしまった」と当惑したことだろう。
どうやら私は竹宮の個性的な"お洒落"には、微妙なインパクトを受けていたらしい。音楽学校時代から、私のクラスメートの少女たちは誰もが大変美しかった。
プロの音楽家を目指そうという少女たちは、だいたい家が大金持ちであり(音楽教育には大金がかかるのだ)何故か皆決まって成績がよく芸術感覚に優れていた。彼らもお洒落のセンスは同時代の少女たちよりも突出していたが、竹宮ほどの個性は感じなかった。私が自分の洋服や靴を自主的に買いはじめたのも、竹宮と会って以降のことだったと思う。しかし悲しいかなお洒落をする方法が全然分からず、妙な緑色の靴を買って途方に暮れたことがある。奇抜なものを身に付ければ個性的になるかも、と勘違いしていたらしい。音楽も本も映画も楽しいけれど、洋服や靴を選ぶのも楽しいよ、と教えてくれたのが竹宮だった。

趣味や性格から美意識や価値観に至るまで、天と地ほども違う人間が出会ったのも不思議だが、その後、私は音楽家への道を捨てて、長い期間竹宮と一緒に仕事をすることになった。これがどう考えても摩訶不思議な出来事だった。竹宮惠子は、出会った頃から考え方がシッカリしていた。地に足がついていた、というか。漠然と漫画家になることを夢見ているのではなく、将来の生活設計もキチンとたてていた。世に出たら自分のプロダクションを設立すること、自分で家を建てることなど話してくれたが、当時の私には「夢のない人だね〜」としか映らなかった。対する私は、というと、"常に優雅で高尚な非現実世界を浮遊していたい"と願う人間で、日々音楽に酔いしれながら最高級なティーセットで、最高級の紅茶を飲みつつ、友人達と芸術論議に花を咲かす…という、夏目漱石の作品にある「高等遊民生活」なるものを夢みていたのだから。理想は高いが現実生活に対処するのは苦手、という私の傾向は今だに変わっておらず、よく竹宮から世渡り術が下手だと叱られている。

竹宮惠子は、本来は人を楽しませるという娯楽性に優れた職人気質の作家であると思う。そんな彼女の前に「少女漫画の芸術性を高めるべきだ!」と声高に叫ぶ私が出現したのだから、かなり困惑したのではないか。当時の彼女は「自分はどういう作家を目指すべきか」と随分悩んでいたようだ。悩ませてしまった、という表現が正しいかもしれない。二十歳で一夜にして 「風と木の詩」を創作したことは、すでに伝説と化しているが、このときこそ自分が何を描く作家になるかを、把握した瞬間でもあったのだろう…と勝手に思っている。結局「風と木の詩」が世に出るまでに八年間という時間を要したが、その期間に彼女は、確実に画力も構成力も表現力も向上していった。あの作品を二十歳の頃世に出していたら、きっと今ほどの内容の豊穣さは生み出せなかったと思う。

しかし「風と木の詩」の主人公、セルジュ・バトゥールは竹宮自身によく似ている。セルジュの真面目でひ むきな性格が、エキセントリックかつ自分の感情のおもむくまま生きているジルベールを、いつも傷付けることになる。このふたつの決して交差しない人間模様を、竹宮はどこから思いついたものやら。作品の中でジルベールが発する言葉には、日頃私が口にしていた科白がよく登場する。彼女が私を観察していたのだろうか?とも思ったが、佐藤史生によれば「それが作家性というもので、観察しようなどという意識は無くても、これは自分の作品に使える、という場面は無意識下で脳裏にインプットしてしまうのだ」そうだ。そうした側面では少しは私も作品の役に立ったのかもしれない。

「変奏曲」を筆頭とした音楽漫画の物語は私が提供したものだが、「地球へ…」「私を月まで連れてって!」 といったSF作品は私には絶対に発想できない。ずっと以前の少女雑誌編集部ではSF漫画を受け入れてもらえなかった。「少女漫画家にSFなど創れるはずがない」という編集者の意味の無い思い込みだったが、それも今は昔…の感がある。私のまわりにはSF小説が大好きな人間が多かったので、彼らがいずれ優れたSF漫画を描くことは予想していた。竹宮はSF小説よりも、星やロケットといった実際の宇宙を愛していた。
自分自身が宇宙飛行士になりたい、と今でも言っているほど。コンピューターも大好きで、いち早く手にしたひとりである。小松左京氏と会うと、二人で夢中になってコンピューターの話を延々と続けていた。機械が苦手な私は、そばに居て話を聞いていても二人が火星語で会話しているがごとく意味不明だった。竹宮惠子は最初から少女漫画ではなく「少年雑誌で少年漫画を描きたかった」作家なのである。時代が竹宮惠子に無理に少女漫画を描かせた、とすら思う。ひと世代遅く生まれていたら、彼女は少年漫画作家として活躍したかもしれない。その後誕生したたくさんの作品群を見ると、そうした時代背景が、本人にとって良かったのか悪かったのか…これはもう"神のみぞ知る"という領域で誰も判断出来ないことだろう。

竹宮惠子と出会って、私の人生も180度変わってしまったが、結果として彼女の夢も実現し、「少女漫画の芸術性を高めたい」という私の悲願も現実化した。ついでながら、音楽に酔いしれつつ最高級の紅茶を飲む日々、という私の夢もかなったのだが、憧れの高等遊民生活は案外退屈で空虚なものと知り放棄した。ピアノを弾き始めた頃から「表現とは何なのだろう?」という疑問に悩まされ続けてきた。評論家・小林秀雄氏の「表現することは解決することである」 という理論がスッキリして好きだったが、実際の現実世界では表現したものが、楽々と解決には至らない。自己満足という完結なら簡単だが、表現したものが、多くの人々を喜ばせたり、賛同を得たり(たとへそれが作家の没後であっても)するにはとてつもない才能と努力を必要とするのだ。しかしながら、やはり生きていく中で精神的に充実するのは、自らが創作している瞬間だけなのかもしれない。あれやこれやあったけれど、こうした結論に(実感として!)達することが出来ただけでも、漫画に携わったことに感謝すべきかな〜と思う今日このごろの私である。(文中敬称略)

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