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【村田順子:竹宮惠子後援会『さんる〜む』誕生の軌跡】

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「竹宮惠子の世界展」目録に寄稿

竹宮惠子の世界展:2006年01月07日(土)-03月03日(金)
竹宮惠子の世界展:徳島県立文学書道館 2006年



竹宮惠子後援会『さんる〜む』誕生の軌跡
漫画家
竹宮惠子後援会『さんる〜む』元会長
村田順子
(図版に続いてテキスト抽出あり)





竹宮恵子後援会『さんる〜む』誕生の軌跡
漫画家
竹宮惠子後援会『さんる〜む』元会長
村田順子

竹宮恵子という漫画家を知ったのは、私が中学生の頃。友人の家にあった少女コミックに掲戒されていた 『ロンド・カプリチオーソ』というフィギュアスケート漫画だった。
なんという画力!コマ送りで、イキイキと華麗に舞う少年の体が美しくて、こんな漫画を見たことがない!と衝撃を受けた。まず少年が主人公の少女漫画自体が珍しかった。
「漫画家になりたい」この想いは、小学校一年生の夏に誓って以来、1ミリの揺らぎもない。その夢を現実に近づけるために、東京にある私立女子高校のデザイン科に進学した私は、そこで漫画家を目指すたくさんのクラスメイトと出会った。同じものを読んで、感激して熱狂して、同じものを見て笑いあえる友を得た私の人生は、やっと未来への軌道に乗った気がした。
その仲間の1人が、夏休みに「竹宮恵子先生のサイン会に行こう!」と言った。
ただ夢見ていることが精一杯だった十六歳の私は、敬愛してやまない漫画家に直接会える…なんて考えたこともなかったので、まさに晴天の霹靂。
「そうか〜!サイン会に行けば会えるんだ!!」
それは当事(←原稿まま)、少女コミックが夏に毎年開催していた日本橋三越デパートの屋上イベントホールで行われる、漫画家の日替わりサイン会だった。
夏の朝、私は友人になかば引きずられるように日本橋まで行った。
「なんでこんなに早く行くの!?開演時間に行けばいいじゃない?」と私。
「デパートの開店前に到着していないと絶対ダメ!」 と友人Kは言った。
「うっそ〜!」。さすが東京育ちは発想がちがう(私は埼玉育ち)。
Kの言った通り、ほぼ始発で行ったのに、三越デパートの入り口には、もうすでに山のようにファンが並んでいた。「が〜〜〜〜ん!」
なんて甘かったんだろう!?改めて竹宮先生の人気を思い知らされた私は、なんだかモーレツにコーフンして来た。
開店と同時に、一斉にすべての入り口から全力疾走する女の子たちの姿につられて、私たちも無我夢中で走った。どこをどうやって屋上までたどり着いたのか記憶がないくらい。でも、屋上で私たちが受け取った整理番号は、すでに100番を回っていた。
悔しい〜!!あんなに早く起きたのに、楽勝で一番乗りくらいの気分で臨んだ私の無知さに衝撃を受け、生まれて始めて闘争本能に火がついた。
熱気をおびる会場。最終的に集まったファンの数は千人を越えていただろうか。炎天下でただひたすら開演を待つ時間に盛り上がる感情。そして、ついに舞台に現れた竹宮先生は、それは美しく可憐で、最高に輝いていた。セピア色の総レースのブラウスとロングスカート、裾から見えるのはクラシカルなブーツ。そしてくるくる巻き毛にちょこんと乗った帽子。二十世紀初頭のイギリスの貴婦人を思わせる、その雰囲気のすべてが理想だった。 私は一目で恋に落ちたのだ。
その日から、毎日、毎日、それはもう本当に毎日、ファンレターを書く日々が始まった。
どんなに先生の作品を愛していて、キャラクターに恋してて、先生自身にあこがれているかを、情熱のまま、思いつくまま、書きたいことを全部文章にして、編集部宛に送り続けた。便箋ではもの足りなくなり、最後はレポート用紙まるまる一冊書き綴ったものを、何冊も送った。そんなファンレター攻撃が始まって数ヵ月後、突然私の家の電話が鳴った。
それは、竹宮先生と二人三脚で作品を生み出している、ファンなら知らぬ者のいない"NONたん"と呼ばれる、先生のパートナー増山法恵さん(現在は小説家・音楽評論家・ボーイソプラノ研究家)からのお電話だった。
「良かったら、遊びにいらっしゃい」
「ひぇ〜〜〜〜〜〜〜!!!!」その瞬間、確実に私は宙に浮いていたと思う。
この私が、竹宮恵子先生のお家に招かれるなんて! そんな日が来るなんて!!

学校の漫画部の仲間を引き連れて、竹宮先生のお宅におじゃましたのは銀杏が黄色く色づいた晩秋。あの灼熱の夏からたった三ヶ月後のことだ。
アーリーアメリカンの家具で統一されたステキなお部屋で、ケーキと紅茶をもてなされた私たちの前に、仕事場から少しだけ竹宮先生が戻って来てくれた。何をどう話したのか、内容はぜんぜん覚えていないけど、人見知りっぽく、増山さんを頼っている先生が少年のようにかわいらしかった。その後、仕事場を訪れ、初めてプロの漫画家が絵を描いている姿と、感動の生原稿を見せてもらった。
さらに近所のレストランで夕食を共にし、いたれりつくせりの夢の時間が終わろうとしたとき、最後に増山さんが切り出した。
「ファンクラブをやってみない?」
すでに当時のアシスタントさんが運営する小規模なFCは存在したが、作品を論じ合うようなマニアの集まりだったので、これからはもっと広く、ミーハーなファンを取りこんで盛り上げて行きたい…という先生と増山さんの意向に、私たちのキャラがバッチリ当てはまったというわけだ。
できるとか、できないとか、そんなことを考える余地もなく、不安も心配もなにひとつよぎることなく、二つ返事で「やります!!」とお返事したのは言うまでもない。

会の名前は先生の希望で「さんる〜む」に決定。 会員は増えるだけ増やしましょう!!ということになり、雑誌で募集をかけたところ、あっという間に二千名を超えた。
あの運命の夏から四ヵ月後に行われたサイン会で、私たちはファンからのプレゼントと大量のお花を運ぶ役割を仰せ使い、先生と行動を共にするスタッフになっていた。
もう始発で電車に乗ることも、整理券を求めて走ることもない。

竹宮惠子後援会「さんる〜む」に捧げた私の高校 活がどんな風だったか…というと、毎日がただひたすら波乱万丈、なにもかもが初めての体験で嵐のように刺激的だった!
学校に行って、放課後は部活(漫画部)、そしてその足で竹宮先生のお宅に行き、次号会報の内容を話し合ったり、各自描いて来た担当ページを持ち寄って編集したり、それを印刷所に入稿したり、印刷が上がって来たら、膨大な宛名書き→発送作業に突入。
私はクラスメイト三人と、”黄桜グループ”というユニットを組んで、増山さんをサポートしていた。超売れっ子の先生は頻繁にサイン会やイベントを開催していたので、そのお手伝いに駆けつけ、お友達の漫画家さんや文化人とのパーティや食事会にも、たかが高校生の分際で頻繁に連れて行ってもらった。当時先生と懇意にしていた故・寺山修司さんにお会いする幸運に恵まれたのも、私の一生の財産だと思っている。
ちなみに”黄桜グループ”は、かの歴史的名作「風と木の詩」の冒頭、ラコンブラード学院にセルジュが転校して来たときに、室内監査を行う先輩役として出演させてもらっている。三人の顔は男性に変えてはあるけど、ちゃんと私たちの似顔絵になっていて、当時FCの会長という立場ながら、単なるファンの女子高校生が、あこがれの漫画に出してもらえるなんて!目も眩むような身に余る光栄に震えた。
学校帰りに竹宮先生宅に寄ることが日課のようになっていた私の帰宅時間は最終電車…なんてこともざらだった。そんな遅い時間に電車に乗っている制服姿の私を、サラリーマンのおじさんたちが、よく白い目で見ていたっけ。
でも見かけが不良ではないから、補導も注意もされたことはなかった。
家に帰ると待っていたのは地獄の電話攻め!
二千人の会員さんが、毎日あらゆる用事で電話をしてくる。考えても見てほしい、留守電もなければFAXもメールもなにもない時代だ。
今思えばなんであんなにも無防備だったのか、考えるだけで恐ろしい。
竹宮先生の熱狂的ファンで、何でもいいから情報が欲しい人、お友達感覚で雑談してくる人、ほとんどが私より年上だったと思うけど、おとな相手にどんな対応をしていたのか、覚えてはいない。私の留守中にかかってくる電話は家族が受けた。なんでモンクひとつ言われなかったのか、これまた七不思議。
すべてがアナログで、今なら会費管理も宛名シールもすべてパソコンがやってくれるけど、宛名書きは手書きがあたり前!しかも取りに来てくれるような便利な宅配便業者なんか存在していなかったから、みんなでヒーヒー言いながら郵便局に郵便物を運んだ。
会報は飛ぶように売れ、やがて一般の書店からも「置かせて欲しい」と依頼が来るようになり、毎回千部とか二千部を納品するようになった。自分たちで会場を探し、竹宮先生を囲む集会(今で言うファンミーティング)も幾度となく開催した。
それが私のスーパー高校生活だった。

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