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【対談:寺田ヒロオ・竹宮恵子】

初出:Passe Compose・パセコンポゼ:1980年09月10日
再録:続マンションネコの興味シンシン:1984年10月5日



Passe Compose パセコンポゼ 過去完了形
出版社:駸々堂書店
発売日:1980年09月10日



続マンションネコの興味シンシン
発行所:角川書店
初版発行:1984年10月05日




対談:寺田ヒロオ・竹宮恵子
図版は「続マンションネコの興味シンシン」より
(図版に続いてテキスト抽出あり)










寺田ヒロオVS竹宮恵子
小学校時代に読みふけった「背番号0」のことなど

竹宮 私のファンだと「背番号0」の名前とかは知っているけれど、それ以前になるとわからない若い人たちが多いと思うんですけど、もう強制的に、私の好きな作品の話を聞かせてあげたいと。

寺田 僕が純粋に子供マンガを読んだのは戦前ですからね。僕は昭和6年生まれだから、文字が読めるようになったのは10、11年くらい前でしょう。「のらくろ」などを主体にした『少年倶楽部』や『幼年倶楽部』ですね。しかし、戦争中はもうマンガどころじゃなくて。紙もないし、本もなくなって。
戦後『漫画少年』が出たのは、昭和23年で、それまでは、僕にとっても、マンガはブランクの時代でした。

竹宮 そうですね。まったくなかったんですね。

寺田 今にして思えば、戦争に敗けていろんなものが復活したり、自由になったりして、暮しやすくなったとも言えますが、敗けた直後というのは、お先真っ暗な時代だった。まあ、僕にとっては、野球が復活された、という幸せな面もありましたけど。

竹宮「瀬戸内少年野球団」みたいな感じですね。

寺田 そうそう。 で、少し生き甲斐ができたって感じだったですね。(笑) 勉強は嫌いだし、他のスポーツはいっさいダメなんだけど、なぜか、野球だけは性に合ったんですね。僕のことをスポーツマンだと思ってる人がいるけど、運動会はいつもビリくらいだし、何やらせてもドジなんですよ。でも、野球は総合スポーツだから、鈍足でも、柵の外に打てばちゃんとホームに帰ってこられるし。そんなことで楽しかったんでしょうねえ。でも晴れてる時は野球できるけど、雨が降るとすることがない。それが結局、 投稿マンガに。(笑)

竹宮 すると、マンガはやっぱり野球の話が多かったんですか?

寺田 いや、特別そういうわけじゃない。どっちかというと、大人の新聞とか、週刊誌にひとコマとか4コマを出してたんで。
だから、子供マンガ家になろうっていう気は全然なかったですね。東京へ出てきた時、カット等を使ってくれたのが『漫画少年』で、メシのタネになったから、結果として子供マンガ家になったんで、始めは特に決めてなかったんですね。

竹宮 じゃあ、ずっと大人のひとコママンガのつもりでいらしたんですか。

寺田『漫画少年』で拾ってもらって“ときわ荘”でなんとか喰っているうちに、いろんな友達もできた 『漫画少年』 がつぶれた翌、昭和31年に、今度は『野球少年』に拾ってもらって、そこで初めて野球マンガを描いたんですよ。「背番号0」という。

竹宮 じゃあ、ストーリー・マンガもその時が初めてなんですか?

寺田 ええ。今になってみれば、野球マンガっていうのはすごく自然だったんですけど。なぜそれまで野球マンガを描こうとしなかったのか、自分でも判らないんですね。そんな具合で始めた「背番号0」ですけど、描き始めたら、やっと自分の場を得たというか、本気になれまして。

竹宮「バットくん」をお好きだったと聞きましたけど。

寺田「バットくん」(註:井上一雄による日本の野球漫画作品。『漫画少年』創刊1948年1月号から1949年3月号まで連載。日本で最初の野球漫画といわれている)は思いやりのかたまりみたいなマンガですからね。それが性に合ったんでしょう。悪人が出てこなくて、とにかく優しくて。何とも言えない明るさとか純真さとか。

竹宮 私は「バットくん」に関しては、読んでる年頃では全然ありませんので。(笑) 寺田先生が 復刻された『漫画少年』で、ようやく見れたんですけど。

寺田 作者の井上さんは『漫画少年』の2年目に亡くなられてるんです。おそらく、あのまま健在で描いていてくださったら、おそらく僕は弟子入りしたくなっただろうと思いますね。

竹宮 ああ、そうですか。じゃあ、「背番号0」には「バットくん」の影響がありました?

寺田 心の中にはありました。とくに「バットくん」を目指して出てきたわけじゃないけれど、性格的には一番合ってて。ああいうマンガが僕にとってはいいマンガで、それを自分も追いかけたいっていうのはありましたね。井上さんは、若い時に病気をなさって、体がほとんど不自由な方だったらしいんです。だから、ご自身では野球なんて実際にはなさらなかったらしい。でも、そんなこと、僕は「バットくん」を読んでて、全然感じませんでした。井上さんはおそらくスポーツマンで、野球をしょっちゅうやってた人じゃないかと思うくらい、明るくて、生き生きとしてて、翳りなんかはまったくないですね。だから、井上さんのお体のことを後に知った時は、本当に驚きました。

竹宮 それは私も全然知りませんでした。私は今でも、寺田先生の「背番号0」を時どき思い出したように出してくるんですけど、読み始めると、どんどんどんどん、読んじゃうんです。(笑) 今のマンガからすると、先が読めてしまうんだけれども、なぜか知らないうちに、読みながら泣いてしまう。(笑) そういったマンガを、やっぱり読んでほしいんですよね、知らない人たちに。今は、自分たちが評論家みたいになっちゃってて、若い女の子ですら、テレビ観ながら、「イマイチ、ダサかった!」とか「あたりまえの話だった」なんていって、批評するような子がすごく多いでしょう? だから、ああいう素直な、とても単純明快で、それでいて、何かこう心に訴えるところがあるっていう話は読んでもらいたいな、って思ってるんです。
ところで、「背番号0」の連載はずいぶん長かったと記憶してるんですけれど。

寺田 そうですね。『野球少年』が35年の始めに廃刊するまで、4年以上描きました。

竹宮 その後、『小学○年生』という雑誌にお描きになってたと思うんですが、『野球少年』からすぐに移られたんですか? 学年別雑誌には。

寺田 いえ。 『野球少年』がつぶれたときに、「背番号0」を学年別雑誌に描かないか、っていう話が小学館からあったんです。でも、学年別雑誌は、読者層が一学年に限られてしまうような気がして、描きにくいと思ったもので、嫌だって言ったんです。そうしたら「だったら『少年サンデー』の方に」って言われて。そんなわけで、一時『少年サンデー』に「スポーツマン金太郎」 「背番号0」と22本描いてました。

竹宮 ああ、そうだったんですか!

寺田 ええ。

寺田「背番号0物語」というタイトルで、半年くらい描きましたかね。その後、「やっぱり4月号から学年別雑誌に描いてほしい。学年が限られて嫌なら、4、5、6年生と通して同じものを同時に載せるから」って言われて。そこまで気を配ってもらうと、こちらもね、イヤとは言えなくなってしまいまして。(笑) それでまた、3年間描きました。

竹宮 私はその頃、親に普通の週刊誌って買ってもらえなかったものですから、学年誌ばかり読んでました。多分、寺田先生のマンガも3年間ずっと読んでたと思います。

寺田 あの時の『少年サンデー』の編集長は豊田さんという方で、ずいぶん思い切ったことをする人でね。その頃、1人のマンガ家がひとつの週刊誌に2本同時に連載するなんて普通じゃなかったし。学年別雑誌に3学年を通して同じものを載せるなんて無茶なやり方でしたがね。でも、僕には幸運だった気がします。そういう人にめぐり会えたってことはね。
とにかく、学年別雑誌はとても描きやすかった。そのテの雑誌はもともとおとなしいものでしょう? 僕のマンガも、それほどハデなものが出てくるものでもなかったですから、あんまり、人気とかを意識しないで描けて、僕には描きやすかったですね。

竹宮 そういう作品の後っていうのは「暗闇五段」ですね?

寺田 ええ。「スポーツマン金太郎」を『少年サンデー』の創刊から5年間描いた後です。

竹宮 すごいですね、考えられない。(笑)

寺田 一年伸ばしの5年ですからね。最初から5年っていう話じゃなかったもので、僕も疲れてしまって。「やめさせてくれ」って言ったら、「もう半年何か描いてくれ」と。それで「暗闇五段」を始めたんです。野球はもう飽きたから。(笑) 別に柔道をよく知ってるわけじゃなくて、たまたま戦時中にちょっと習っただけのことですけどね。全然知らないことよりはましだろうってことで。その前に『少年』で「もうれつ先生」っていうのを描いたことはあるんですが。で、「暗闇五段」半年描いたら、「心身ともにもうダメです」って手をあげちゃいましてね。(笑)

竹宮 週刊誌はきついですからねえ。(笑)

寺田 性格的にアシスタントを使えないんです。最後まで全部1人でやってましたから。生活もう滅茶苦茶でした。

竹宮 このあいだ、子供向けのマンガ入門書『子どもまんが教室』をお書きになってましたけど、あの本の中の絵は、すべて新しくお描きになられたんですか?

寺田 ええ。

竹宮 私びっくりしたんです、全然昔と変わってなくて。もう描かなくなってしまった人とか、描かなくなって久しくたってから再び描き出した人というのは、絵がずいぶん変わっちゃうんですね。それが全然変わってなかったんで、とても喜んでしまって。(笑) 是非、見たいです、新しい長編マンガを。(笑)
先生が『少年サンデー』等に描かれていらした頃には、人気投票というのはあったんでしょうか。

寺田 ありましたし、かなり影響がありましたよ。読者アンケートが懸賞ハガキと一緒になっていまして。『少年』で「もうれつ先生」を描いてる時に編集者と喧嘩したことがあるんです。当時の『少年』は「鉄人28号」とか「鉄腕アトム」が載ってる頃でして。担当の人が「今度は2位になりました。1位は28号です。頑張ってください!」って、しょっちゅうハッパかけるんです。僕はとうとう腹が立ってしまって、「人気投票のために描いてるんじゃない!」なんて。 僕はそういうところがダメなんですね。すぐに喧嘩してしまう。(笑)
連続ものだから、その回によって、別冊になったり、4ページ、8ページになったりすることもあるわけでしょう。そのたびに、上がっただの、下がっただの言われたら、描きにくくてたまらないからやめさせてくれって。(笑)あの頃から生意気でした。(笑)

竹宮 いやあ、私もまったく同じことを言っております。いつも喧嘩しております。(笑)

寺田 ただ、僕の頭の中には自分が純粋に読んだ戦前の子供マンガがあるんです。できれば、幼稚園から小学生くらいまでが読めて、親が読んでも、「ああ、面白いな」「いいことを描いてるな」と思うようなものを描きたい。そういう雑誌が1冊でも2冊でもいいからあってくれればっていう気がありましてね。

竹宮 なかなか辛かったりして。(笑) 私のマンガを親が読んで納得できるかどうか。(笑)

寺田 今はマンガの読者年齢も高くなっているし、僕が考えてる子供マンガのイメージとは違ってきてるとは思いますが。ただ、僕が言ってるようなものばかりになってしまったら、これもまた味気ないとは思いますけどね。今は昔と違って学年別雑誌も変わりましたね。テレビのマンガを載せた方が売れるということで。

竹宮 私も、もっとずっと若い頃ですけど、「幼稚園」っていう雑誌で、“リカちゃん”っていうお人形がありますでしょう? あれの連載マンガをやったことがあるんですけど。アンケートをとるとやっぱり、商品とドッキングしたそういうマンガが1位になっちゃう。「もう、リカちゃんやれば絶対2位になります!」って。それで1位は怪獣ものと決まってるんですよね。(笑) 2位になっても、なんにも嬉しくない。(笑)

寺田 理想論かもしれないけど、どうやったら売れるものを描けるかというんじゃなくて、どうやったらいいものが出来るかと、描く方も作る方も悩んで、それをどうやって採算をとっていくかということに苦労してほしいんですよね。

編集 ところで、寺田先生もあの“トキワ荘”にいらしたんですよね。

寺田 トキワ荘に『漫画少年』の加藤さんという編集者がいて、半分手塚さんのマネージャーみたいな恰好でくっついていたんですね。で、「トキワ荘が空いているから入ったらどうだ」って言われて僕が入ったんです。

竹宮 手塚先生とはその時お知り合いに?

寺田 ええ。そんなことでもなければ、特別手塚さんと接触する機会っていうのはなかったかもし れないんです。僕は手塚さんのマンガは「ジャングル大帝」が『漫画少年』に載った時初めて知りましてね。びっくりしました。こんなマンガを描ける人がいるのか、って。でも、僕のマンガは出発点が違うものでしたから、手塚さんのマンガは面白いと思うし、尊敬もしていますけど、自分の目標とか手本にはとうとうなりませんでした。ですから、手塚さんと知り合ったのはまったくの偶然なんですよ。
手塚さんがトキワ荘にいられた頃、高岡から我孫子君(藤子不二雄のひとり)が偵察に出て来たことがありまして。手塚さんを訪ねて来たんだけど、「僕はカンヅメになるから、一晩泊めてやってくれ」って、僕に我孫子君を預けていったんです。結局、一週間ほど泊っていきましたけどね。(笑) もし、あの時、我孫子君と会わなかったら、「新漫画党』なんてのも出来なかったでしょうね。僕は自分で友達を作れる性質じゃないし、尊敬してるからって、積極的にマンガ家のところへ 訪ねて行くこともできない性質ですから。『漫画少年」とか「トキワ荘」とかいう舞台がなかったら、まったく孤独のままマンガ家になってたんじゃないかと思いますよ。それが、そういう偶然が重なって、ああいう凄い先輩や友達が出来てね。やっぱり運が良かったとしか言いようがないですね。(笑)

竹宮 なんか、こう“ひとつの時代”っていう感じでしたものね。

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