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【竹宮:2400枚も描いた原稿を焼きすてた】
自身が中学校3年間に描きためたストーリーマンガ(81話、2400枚)を全部燃やした、というエピソード


「少女マンガ家になれる本」
発売日:1980年02月31日初版
出版社:二見書房

※初版発行 昭和55年(1980年)2月31日




「少女マンガ家になれる本」116-120ページ
(図版に続いてテキスト抽出あり)




「少女マンガ家になれる本」194-196ページ
(図版に続いてテキスト抽出あり)





「少女マンガ家になれる本」116-120ページ

少女マンガのほうも、水野英子さんとか、西谷祥子さん、北島洋子さんらの主人公をずいぶんまねして描いていました。手先が器用だったということもあるのでしょう。

そうやって描いたものを友だちとか、近所の人に見せたりしていました。近所のお姉さんなどに「マンガ家になるの?」なんて聞かれたこともありましたが、そのころはマンガ家になろうなんてつもりはまったくありませんでした。

このころにまねて描いた似顔絵は現在、自分の手もとには一枚も残っていません。もし残っていれば、恥ずかしい気もしますが、なつかしいだろうと思います。でも私はわりあい描き捨てというのか、ものに対して執着心がないので、自分自身の絵を惜しげもなく捨てたり、人にあげたりしても平気なんです。マンガ家になってだいぶたってから、自分の描いたものをとっておけば、あとになって使えることもあるって気がついたぐらいですから。


●二千四百枚も描いた原稿を焼きすてた

そうした似顔絵などを描いているうちに、だんだんストーリーマンガも描くようになりました。初めて一本の作品を描きあげたのは、私が中学生のときです。そのころからシリーズものを描きはじめていて、同じ主人公を使って何話もストーリーマンガを作っていました。内容はいまでもおぼえていますが、どういうわけか、キャラクターも筋も少年マンガっぽいのです。そのころの私は少年マンガをいちばんよく読んでいたせいかもしれません。

そうしたストーリーマンガを中学校の三年間に、八十一話、二千四百枚描きためました。でも、それは全部燃やしてしまいました。高校に入ってからは自分のストーリーマンガを他の人にも見せるようになりましたが、それ以前の中学時代に描いたストーリーマンガは、読者といえば自分自身しかいなくて、あからさまに描いてあるので恥ずかしかったからです。

両親にも見せられませんでした。だから全部隠しておき、中学を卒業するとき、親に見せてから燃やしてしまったのです。
いまのアマチュアの人に、ストーリーマンガを何話も作っていたと話すと、たいてい驚くんですが、私にとってはたいした苦労ではありませんでした。というのはペンなんかぜんぜん使わず、鉛筆だけで描いていたからです。それと、完結させるのが好きというのか、ひとつのことを完結させないで前へ進むことができない性分なのです。だから、描きはじめた作品を途中で放棄して、話が最後まで行きつかないままおしまいにしてしまうというのは信じられませんでした。

そのシリーズで描いたマンガのストーリー、つまり筋とかエピソードの作り方はいまから考えてみると、ちょっとおもしろいものでした。それはいわば学校の友だちとの合作なのです。まず、私が自分で作った話を映画のストーリーだといつわって友だちに話し、それから家に帰ってきてその日に話したことをせっせとマンガに描いていたんです。

友だちには自分の作った話だなんていわないで、あくまで映画のストーリーということで聞かせるわけですから、つまり悪くいえば友だちをだましていたことになります。でも、友だちに「つづきを聞せて」といわれるのがとってもうれしかったのでやめられませんでした。物語というものはおもしろくなかったら、まったく人に聞いてもらえませんからね……。私はこういうことをやるのが好きだったのです。いわゆる「不思議の国のアリス」における、アリスに対するドジスン教授という感じです。このお話づくりは私にとって、とてもいい訓練になったと思います。

友だちに話すストーリーは学校でボケーっとしているあいだとか、休み時間などに考えていました。それを友だちに話し、家に帰ってから机に向かい、毎日コツコツと勉強するふりをしてマンガに描く──それが日課のようになっていたので、苦労というのはべつに感じませんでした。そうやって中学の三年間、毎日描いていたので、あっというまに二千四百枚になったのです。

このようにして描いたシリーズマンガを、中学三年の終わりごろ、友だちに、実は映画のストーリーではなかったと事実をうちあけ、私の親にも見せ、そのときから私は、以前はなんとなく隠れて描いていたマンガを公然と描きはじめました。



「少女マンガ家になれる本」194-196ページ

●つねにアイデアのアンテナをはっておこう

私の場合、作品を描くにあたって具体的な構想というのはあまりありません。これとこれというふうにシチュエーションだけを決めて描きはじめます。マンガを描きはじめたころ、つまり中学生のころの私のマンガの作り方の一例を少し紹介しましょう。

たとえばいつも使っている主人公がいるとします。いつもならその主人公の家族も登場してくるんだけれど、そのときはどこかへ出かけたことにして、そこではじめて学校でできた友だちが、自分の家に遊びにくる話にしようとシチュエーションを決めて描きはじめるわけです。それでその話がどこまでつづくかというと、ページの制限もありますけれど、どこまでも進むわけです。でもだいたい三十枚程度におさまっていたようです。

だからそのころは、自分自身が描き手であると同時に読者という感じでした。自分の作家性というのはどこかへ行っていて、自分自身のなかにある読者の部分を楽しませるためにのみ描いていたという感じです。それだからこそ、かえって客観的に描けたのだと思います。自分の主張したいことなんかじゃなくて、徹底的に自分を楽しませればそれで満足していたようです。だから描くことに一種の快感がありました。いまから思うとそのころとくに仲よしになった友だちもいなかったし、マンガとくらべると友だちはだれでもよかったのかなという気さえするぐらいです。

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