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【竹宮恵子:アルバム】
ぱふ1980年04月号「特集竹宮恵子」(30歳)

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ぱふ1980年04月号「特集竹宮恵子」
発行日:1980年03月31日
出版社:清彗社




ぱふ1980年04月号「特集竹宮恵子」152-153ページ
竹宮恵子 アルバムからの想い出


1950(昭和25)年、生後7ヶ月。
自宅で父親が写す。両親の評するところによると、あまり泣かない、いつもきれいな赤ん坊だったらしい。

1963 (昭和38)年、中学校1年生。両親の結婚記念日に久々に写真屋へ行って写す。
場所は“立木写真館”で、ここはNHK朝のテレビ小説「なっちゃんの写真館」のモデルとなったところ。
立木義浩の御両親が経営していた。
教育ママのはしりの頃だったが、両親はいたってのんびりしていた。ものわかりのよい親だった。

1962(昭和37)年、小学校6年生。
自宅で母親が写す。
両親が好きだったために、着物を着る機会も多かった。
が、この物の柄だけは好きではなかった。
中学時代は、成績は中の上で目立たないタイプ。
だだし、怒ると何をいうかわからないようなところもあった。

1967(昭和42)年、高校2年生。
修学旅行のとき浅草で。
修学旅行のときは、グループ(6〜8人ぐらい)のリーダーを努めた。
左端がクラス・リーダーで、割とリーダー格の人ばかりが集まっていた。
その頃から小さいグループのリーダーをするのが好きで、現在プロダクションを設立してガンバッテいるのも、この現れ。




1969(昭和44)年、徳島大学1年生。
タブルデートのときの写真。
ボーイフレンドは、テニスシューズのよく似合う、スポーツマン的なかわいらしさを持っているスイートな感じの人だった。
特に、自分では全然そこに気付いていなくて、そんな所が好きだった。

1979(昭和54)年、正月パリで。
4度めのヨーロッパ旅行。
ウィーンでクリスマスを過ごし、正月にパリに着く。
メンバーは、竹宮さんの他に、増山さん、アシスタントさん、元メシスタントの独語できる人の計4人。

1975(昭和50)年、仕事場で「ファラオの墓」を執筆中。
この頃、専門アシスタント二人。
月産120〜130枚ほど。
週刊誌連載をしながら、月刊誌で読み切りを11本描く。

1978(昭和53)年、SF大会(ASINOCON)にて。
芦ノ湖上の遊覧船でこのときは、なぜか皆が振り返るのでどうしてかと思ったら、髪に大きな花飾りが……。
この時は中島梓さんたちと、精力的に遊び回った。



ぱふ1980年4号「特集竹宮恵子」
 【竹宮恵子:アルバム】
 【インタビュー:竹宮恵子】
 【作品について+編集後記】

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