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【竹宮惠子「大学は自分発見の場」】

資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/167011...

参考:2000年04月 竹宮惠子、京都精華大学教授に就任



大学活用法 岩波ジュニア新書357(第9刷)
発行日:2000年09月20日(初版)
   :2006年06月26日(第9刷)
発行所:岩波書店




大学活用法 岩波ジュニア新書357(第9刷)」133-148ページ
大学は自分発見の場
竹宮惠子
(図版に続いてテキスト抽出あり)












大学は自分発見の場
竹宮惠子

一九五〇年徳島県生まれ。漫画家。
『少女コミック』誌に「森の子トール」連載開始後、徳島大学中退、上京。
一九八〇年『風と木の詩』『地球へ…』で第二五回小学館漫画賞受賞。
二〇〇〇年四月より、執筆活動のかたわら京都精華大学芸術学部マンガ学科で教鞭をとる。
主な作品に、『ファラオの墓』『変奏曲』『イズァローン伝説』『エルメスの道』『私を月まで連れてって!』『天馬の血族』『マンガ日本の古典 吾妻鏡』他多数。



就職か、大学か

私にとって大学という場があったことは、ほんとうにありがたいことでした。なぜなら、親が言うには大学に行くか、あるいは就職するかであって、マンガ家になるという選択は許されなかったからです。

「そんな不安定な商売のために東京へ行くなんていう危険なことを、親としては基本的に認めるわけにはいかない。まだ一八歳で何も世の中が見えていないのだからなおさらだ」と言われて、私は返す言葉がありませんでした。高校のころにはもう応募作を描いたりして、気持ちとしてはマンガ家としてやっていく自信はあっても、自分の才能がどの程度なのかまだ読めなかったし、うまくいくかどうかは、やはり人気商売で受け手のあることですからわからないと思いました。親を無理やり説得しようとは思わなかったし、家出するほどの勇気もありませんでした。

では、就職するのか。そこで私は、就職したらマンガが描けるかどうかをまず考えました。でも働いてお金をもらうのはそれほど甘いことではない。もしかしたら大学に行ったほうがヒマがあって、勉強しながらでも自分の時間がとれるかもしれない。そう思って突然、就職するでもなく、マンガ家になるでもなく、大学へ行こうと決めたのです。

それが高校三年の夏をすぎたころでした。進路をいきなり大学進学に変更したので、急に勉強しなくてはならなくなった。いろいろ調べてみると、デッサンが試験科目にある中学課程美術科の教員コースというのがあるのがわかりました。絵は苦手ではないから、いまから少しデッサンの勉強をすればいい。また、社会科は日本史か倫理社会かの選択でしたが、日本史は年号を覚えたりしなくてはいけないのに対して、倫理のほうは小論文だったので、正しい答というものはなく文章を構築できればいい。いったん日本史で登録していた受験科目をわざわざ変更しに大学本部まで行くなどして、非常に計算高い気持ちで受験を「画策」したのです。受かることだけが目的だったという、大学にとってはありがたくない学生だったにちがいありません。

そんなふうにして大学に入ったのですが、最初の年からマンガの仕事もあって、両立させながらの学生生活でした。授業に出るも出ないも自分の裁量、ほんとうに自由な生活でした。教養の科目には最低限きちんと出席したので、単位がとれないということはなかったし、専門の授業には出ないことが多かったけれど、たとえば絵を描くというのは専門とはいっても学生の自由に任せてくれる雰囲気でした。

時間の面だけでなく、奨学金で行ったということもあって、国からの援助ではあっても自分の力で学費を工面したと思っていましたから、その意味でも自分で生活を裁量できる幸せをほんとうに感じました。



学問の場としての大学

マンガ家になりたいと真剣に意識しはじめたのは高校一年のとき、田舎に住んでいた私が、石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』を取り寄せて読んでからです。それまではたしかにマンガが好きだったけれども、それはただおもしろいからでした。でもその本を読んだときに、マンガの可能性が、自分が思っていたよりはるかに大きく、まだまだ開拓の余地がある世界なのだということに気づきました。石ノ森先生は本のなかで、マンガには無限の可能性がある、映画だったら撮れないシーンもあるけれどマンガでは表現できないことはない、しかもそれをたった一人の手で描けるのだとおっしゃっていました。それがも のすごく励みになって、初めてプロになりたいと思ったのです。

マンガ家になろうと決心したからには、脚本の本も一冊は読まなくてはと思いました。ストーリーのつくり方にはドラマトゥルギーというものがあって、ストーリーをきちんと構築しないと長編はうまく書けない、とどこかに書いてあったからです。さっそく『脚本概論』という本と、ドラマトゥルギーに関する本、それにアニメーションの専門書も二冊買いこんで、いわゆる学術的な勉強を始めました。大学に入って、本格的にプロになった ころだと思います。

じつは、書店に行けばそういう学術書も売っているということは、大学で知ったのでした。それだけではなく、それまで図書館の利用のしかたもろくに知らなかった私が、大学図書館の学術書コーナーで本がずらりと並んでいるのを見て、それらを読めば大学で授業を受けたのと同じなのだということを初めて知ったのです。高校までは手を伸ばすこともなかった哲学書を読むことも覚えました。大学で初めて「学問するとは何なのか」が漠然とでもわかったのです。

先生がいなくてもいいのではないか、とそのとき思いました。並んでいる本のなかから、自分が「これだ!」と思う本を選んで自分で勉強すればいい。社会に出たあとでも勉強しようと思えばできる。「先生っていうのはもしかすると、ほんとうに必要なときにちょっと何か言うだけで、あとはいらないのかもしれない」。ということは、大学を出ていなくてもいい。気持ちさえあれば、そして本を選ぶ眼さえあれば、どんな勉強も好きなように自分で組み立てることができる。そういうことを発見させてくれたのも大学でした。

逆に言えば、大学とは何もかも一人でやらなければいけないところではないでしょうか。「きみは出席日数が足りないですね」、学生課はこう言うだけです。「そうですか」「先生と相談しなさい」「はい」と言って、先生に相談すると、「じゃ、レポートを書いてきない」、あとは全部自分でやらなければならない。大学とはそういうところです。



社会勉強の場としての大学

思いがけないことですが、大学でいろいろな人づきあいを覚えたことで、自分はほんとうに変わったと思います。同級生だけでなく先輩との関係をはじめ、多様な人間関係があって、いろいろなタイプの人間といやでも知り合うことができました。自分がそんなふうになるなんて高校時代は考えられなかったけれど、男の子と積極的に話すようにもなった。自分の意見を主張できるようになってきたと自分でも思いましたし、それまでの自分とはちがう自分を出すことができるようになったのです。高校時代の親友に会うと、「いやあ、変わったねえ」と驚かれました。そんなふうに自分を変えていく大学での人づきあいが、すごく気に入ってしまったのです。

当時は「大学立法」の問題をめぐって学生運動がさかんな時期でした。「安保反対」だったら話が大きすぎて、自分の社会に対する知識ではついていけないのですが、「大学立法」というのはあまりにも妙なものだとすぐにわかりましたから、あれだけハマったのだといまにして思うのですが、いろいろな集会に出かけて行っては話を聞きました。人の話の途中でも、時間がくると「帰ります」と言って帰ってしまう「ヘンなやつ」でしたが。

どのグループにも属さず間に立っているというスタンスで眺めていると、いろいろな青春の過ごし方が見えてきました。京都まで石を投げに行ってくる先輩もいたし、ニヒリストもいたし、「このタイプの人って、こういうときにそういう考え方をするのか」と気づくこともあった。同級生と歩きながら、突然「ことなかれ主義っていうのどう思う?」と いう話になったりもしました。そういう人生学のようなことを体験して得たものはものすごく多かったのです。

そこで私は、仕事が順調に入ってきていたにもかかわらず、すべての編集担当の方にお願いして、「いま学生運動が盛り上がっていて、いったいどんなことがあるのかどうしても知りたいので、マンガ活動はちょっとお休みします」といって、一年間「休業」しました。そんなふうに自分を変える場というものが大学にはあったのです。

その後、大学の途中で、私はプロのマンガ家として上京してしまい、退学したものだと自分では思っていました。

そうしたら、二〇代前半でスランプに陥ってしまった。東京に出てきて一、二年はとりあえず自分でも満足していたのですが、そこから先の進路が見えなくなって、なんとか描いているものの、自分が「これでいい」と思う道が見つからずに悶々とする状態が三、四年続きました。

ある日突然、「アッ、自分の能力をようやく制御できた」と思える作品が描けた。『風と木の詩』を描きはじめたのはスランプを抜けてすぐのころですが、連載をはじめてしばらくして、私が「そういえば、奨学金を返さない人がいっぱいいるらしいって、このあいだ新聞に出ていたけれども、私の奨学金、返していないよね」と言ったときに、母から「ああ、そうだったわね、徐々に返していかなければいけないんだけど。でも、あなたはまだ休学中だから」という話を初めて聞いたのです。

「そうなんだぁ、よかった、その話前に聞いてなくて」と心から思いました。スランプの時期に聞いていたら、大学に戻ってしまっていたかもしれません。

そう思えるほど、大学は私にゆっくり考える時間を与えてくれたところでした。大学時代は、青春の貴重な時間をうまく使えた、ほんとうにありがたい時代でした。学問という意味ではあまりしていないのですが、そうでない勉強をいっぱいさせてもらったし、一年間大学紛争の勉強をするためにマンガを描かなかったくらい、学ぶことはたくさんあったのです。大学でいろいろな人生勉強、社会勉強をしたことが自分のマンガの底の底の基礎をつくっていると思います。



マンガ学科の先生になる

今年(二〇〇〇年)四月から、マンガ家のかたわら、大学の芸術学部マンガ学科で教えることになりました。

この学科は新設されたばかりで、一年生五〇人からのスタートです。男女比は一対二くらい。明確にプロになりたいと意識している人がほぼ三分の一、あとはまだあいまいで、勉強してほんとうにプロになれるのだろうかと不安に思っている人たちもいると思います。

いろいろな試験方法で選抜しました。推薦入学の人たちには、実際にストーリー実作が課せられます。与えられた簡単なプロットを八ページのストーリーマンガにすると想定して、そのうちの一ページだけを描きなさい、という課題で、一ページ分のマンガが解答としてでき上がるのです。この推薦枠で入った学生が半分くらいです。

ほかにもいくつかの試験方法があって、一つは、たとえば板チョコとウーロン茶のペットボトル、フワフワのモヘヤのきれっぱし、縫いぐるみ用の動く目玉二個とアルミ箔が材料として与えられて、それらを使ってキャラクターをつくりなさいというのが問題。

こういう試験ですから、少女マンガに憧れて少し描いていた、というのでは受からないと思います。入試説明会に行ったときに、高校の先生方から「受けたい生徒がいるのですが、どういう勉強をさせたらいいでしょうか、やはりデッサンでしょうか」という質問を受けて、「いや、ストーリーマンガではデッサンはけっして上手でなくてもいいのです。表現ができていれば伝わるものですから」とお答えしたのですが、やはり「伝えたいこと、表現したいこと」があるかどうかが重要な問題で、そのために意志的に絵を描くことの大切ささえわかっていれば、即座に受験資格はあると思っています。

大事なのは、いろいろなものごとを知っていて、それらについて自分なりの考えをもっていること。本や新聞を読んで、自分なりの答え、自分なりの怒りを持つべきで、そうで ないと表現することはできません。私自身、自分が正しいと思うことをマンガに託して伝えていきたい、マンガという表現方法でこそ読者に伝えられる真実がある、という思いでこれまで書いてきました。その意味で、マンガというのは表現者にとってナマのものであり、自分がそのまま出てしまうものです。学生にも「ヌードショーがいかに上手かということが大事なのです」と最初にクギを刺すのですが、自分自身を脱いで見せることができないと、いい作家にはなれません。



大学で教えてみて

大学では「脚本概論」を教えています。脚本概論とは、ふつうは脚本のつくり方や物語の構図を説明することですが、ストーリーマンガのための脚本概論なら、ネーム(吹き出し部分のセリフのこと)が切れるところまでいかなければならないと思い、一年目の後期の授業はネームに当て、前期でプロットを提出するという条件にしました。

最初は、脚本というものが人生のそこここにころがっていて、おもしろいものなのだということをぜひ伝えたかった。そこで、コマーシャルを四コママンガになぞらえて、ここまでが「起」、ここが「承」、この部分が「転」だという話をしたり、ブローチとかアフリカのマサイ族の首飾りとか、いろいろな小物を持っていって、私がたまたま買う動機になった話をして、物にはすべて物語が隠れているということを説明しました。

そのあと、実際にプロットをつくる段階に移り、夏休み前の授業三回分くらいを使って全員にプロット提出を求めました。評価はABCの三段階。Aが「駆足コース」、つまりネームにしてよろしい。Bが「速足コース」で、私と相談しながらAに行くように努力しましょう。 「並足コース」Cはもう一回書き直し。

そうすると、初めてのことで書きかたがわからないという人、即座に書いて評価もAという人、「要するに、書かせているだけでしょう」という態度でいいかげんなものを書いてくる人、いろいろでした。若くないとこういう発想はできないな、と目を見張るものもあれば、自分がいま考えていることを思いのたけ書きつけてくる、あるいはとてつもなく恐ろしい話や気持ちの悪い話をそのままぶつけてくる、ナマのエネルギーのすごさを感じさせるものもありました。

話の良し悪しはとくに問題にしません。伝えたいことが自分の中にあって、それをどれだけプロットとして表現できるかを見たいわけです。書きたいものはあるけれども、文章にならないから、いきなりマンガにいってしまおうとする人が多いのですが、人に伝えるために言葉にする、文章にすることは大事なひとつのハードルです。主観だけで先に行ってしまうと、出だしはよくても、あとで収拾がつかないことになってしまいがちですが、プロットがあれば、きちっと客観的に分析しながら進めることができるのです。

初めてプロットなるものを書いてみたけれど、結局「いつ、どこで、だれが、何をした」だけで中身がほとんど書けていない人がいます。そういう学生を呼んで、「ここはどうしてこうなるの?」と聞くと、いろいろ説明してくれる。「ああ、それならそこをそう書かないと私にはわからないでしょう」と一つ一つ質問していって、「書きながら自分で 『それはなぜなんだ?』という問いをつねに頭のなかに浮かべれば、細かいところを書きこんでいけるから」といって返します。すると、ある学生は数時間もしないうちに「できました」といって持ってきました。「先生の『なぜ攻撃』がよかったみたいです」。

そういうちょっとしたことで書けるようになります。ぐんとよくなってCからいきなりAになった人もいます。そういうふうに学生が自分で気づいていく姿を見ているおもしろさは、私にとって何ものにも代えがたいところがあります。

学生のほうも「そうだったのか!」と発見するのでしょう。だからこそ書くのだとも言えます。書かされているという意識だけだったらきっと書かないと思います。自分で発見して、自分で何かがわかってきているという手ごたえをつかむと、若い人は絶対に前に進むものなのです。



発見することの大切さ

かつて大学生だった、そしていまは大学で学生と接している経験から、こう言えると思います。大学というのは、ゆっくり考えられる、いわば執行猶予の期間をあなたに与えてくれるのだから、できるかぎり有効に活用してほしい。大学というのはつつけば何でも出てくる宝庫だという感じがします。

先生に頼みこめば、自分の専門とちがう勉強もできます。たとえば私の勤めている大学では「染色」の講座もあって、弟子入りするようなつもりでやってみることもできる。

非常に日常的なレベルでいえば、大学は広いし、夏は涼しいですし、資料も探しに行けばすぐに見つかる。自分の下宿に比べたらずっと快適で便利だから、マンガ学科の学生たちはみな遅くまで残って描いています。そういう場所として、自分の家のように使っている人がたくさんいます。ふとんを持ち込んで、ロッカーの上で昼寝をしてもいい。男子学生は大学のそういう自由な雰囲気をすぐにつかんで活用しています。最近は女子学生のほうが元気があって、数も増える傾向にあるらしいのですが、私は男子学生が三分の一いるのはとてもいいことだし、たくさん男子学生が入ってくれればいいと思っています。

大学時代の中身が濃ければ、大学にいるのは短い期間でもいいし、休学しても、やめてしまってもいい。あるいは大学に行かなくてもいい。ただ、自分一人で考えることを通してぜひ発見してほしいですね。発見すると必ず前に進めると思うのです。

いまの学生を見ていると、いつ見てもだれか同じ人といっしょにいるという人は意外と少ないようです。大学生にもなればそういうものかもしれません。だんだん個性ができてくる時期なのですから。マンガ学科の若者たちがどんなふうに自分を発見し、どんなマンガを生み出していくのか、いまからほんとうに楽しみです。



大学活用法:岩波ジュニア新書357(第9刷)

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