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【中島梓:萩尾望都の世界】
テレビランド増刊イラストアルバム6 萩尾望都の世界


テレビランド増刊イラストアルバム6 萩尾望都の世界
出版社:徳間書店
発行日:1978年07月30日


資料提供
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萩尾望都の世界 中島梓
(画像に続いてテキスト抽出あり)




萩尾望都の世界 中島梓

どれも大すきな萩尾望都の作品のなかで、どうしてもひとつだけ選んでくれ、といわれたら、私はしばらく困ってから、やっぱり「トーマの心臓」を選ぶだろう。
もちろん「ポー」は最高だしフロルはかわいい。ル・グインの「闇の左手」より「東の地平、西の永遠」のほうが正解だよね!! しかし短篇にも忘れがたいのが多いし「萩尾望都のミステリー」これがまたよいのだな。
しかし、ひとつ、となったらやっぱり「トマ」である。なぜか、とちょっと考えてみる。

第一にはそれはオスカー・ライザーがでてくるからだ。(当然だよ。当然)ユーリとエーリクにもまして、オスカー、というキャラクターは限りない魅力をもっている。

そして第二に、それは、「ポーの一族」が奏鳴曲、もしくは変奏曲であるとするなら、「トーマの心臓」こそは萩尾望都のかいた最大の交響詩であるからだ、といったらいいだろうか。

「トーマ」を読みはじめたときの興奮、まず最初の1ページにふれたときのときめきを、私は忘れないが、しかしついに最後のページをめくりおえたときの気持ちのほうが、それよりさらに何倍もふるえていたのを覚えている。

マンガで、ここまで描けた!! ここまで大きなものを表現できた!! ここまで、テーマを追いつめ、そして巨大な「歓喜のテーマ」へとすべての楽節がなだれこんでいくような最終章までを描ききれーーそれは、ヘンないいかただが、いくら萩尾望都でも、ここまではわかってないだろう、それまでは口にできないだろう、いいところ暗示するにとどまるだろう、なぜならこれはマンガなのだから、という私のひそかな見きわめに対する、たえまない裏切りの道のりだった。

だがあれほど、心ふるえながら裏切られつづけたページをほかには知らない。萩尾望都はやっぱり萩尾望都だった。少女マンガはおろか、ただの「マンガ家」でさえなかった。この人は、と、ふるえながら「トーマの心臓」を読みおわったとき、私は考えたはずだ。この人は、なにかとほうもなく大きなものにつかえている人であるーーそして、それをいいあらわすために、マンガ、という形式をかりてはいるけれども、その大きな大きなものは実は、これまで長いあいだ人びとが、特に限られた人びとだけが文字やメロディや絵を使って、なんとかいいあらわせまいかと望んできたものと、まったくおなじひとつのものなのだ、と。

人は、ものを作るとき、まず作ったもののねうちによってはかられる。そしてそれがおなじであったら、つぎには、その人がつかえているものの大きさによってはかられるだろう。萩尾望都がもたらした影響の重さ、というのは、つまり彼女がこれまでだれひとり、少女マンガで描けるとは思わなかったし描こうともしなかったほど大きなことを、あえていおうとし、しかもあるていどまでいいえた、ということによってなのだ。

「トーマ」はマンガにとってひとつの北限だろう。あれ以上に、伝えたいことをメッセージするなら、それはマンガではなくなる。といって、マンガの絵とコマ割りで苦なしに伝えられることにとどまっていれば、それはいつまでもマンガからふみださない。

「トーマの心臓」はマンガがマンガでなくなるぎりぎりの境界線にふみとどまって、マンガでありながら、マンガではいえないと信じられていた「あること」を伝えようとしている作品だ。それは、マンガだから、すごいことなのだ。それは、マンガであってもすごいことなのだ。

こういう作品をかいてしまえば、もう、そのひとは身をけずり、生命をしぼりだすようにして、その境界線につまさきだちしつづけるか、それとも「これ以上いってはマンガでなくなる」領域へまっしぐらに翔び去ってしまうか、どちらかしかないのではないか、という恐れのようなものが私のなかにはある。それは正直いって「ゴールデン・ライラック」 などを読み、イラストばかり描いていた去年の彼女を思ったとき、やはりそうだったかな、という不安にたかまった。

しかし、「スター・レッド」をみて、いくらか安心した。彼女がいま、SFというワクをもつのはとてもいいことだという気がする。

というのは、「SF」こそ、その「これ以上いえない」ことがらを、かろやかに、自由に伝え、そのなかで遊び、まどろむことさえできる唯一のジャンルだからだ。そして萩尾望都にはたぶん、SF、という人工の翼の助けをかりて、何年間か飛びつづけたら、もういちどその翼なしで、「トーマの心臓」のおわったところから描きはじめなくてはいけない、なにかいちばん大きな「伝えたいこと」がまだ残っているのだろう、という奇妙な感じが、私にはする。

これはみんな私の感じたことだから萩尾望都にはめいわくな当て推量かもしれない。しかし、萩尾望都のなかには、「マンガをかきたい」というよりもっとさきに、「これを伝えたい」という大きなものがあるのはたぶんたしかなことだと思う。それはマンガによって自分の表現すべきことをみつけ、導かれていった竹宮恵子とまさに正反対の道のりだ。どちらが正解だというのではない。ただ、萩尾望都の絵をサルマネするマンガ家志望が何人いようと、そのなにかがあるかぎりだれる「第二の萩尾望都」にはなれない。これだけは、絶対にたしかなことなのである。 (評論家)

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