5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

【米沢嘉博:少女マンガの現在・過去・未来】
「米沢」表記は原文ママ

資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/166487...



別冊太陽〔少女マンガの世界2〕昭和38年-64年
出版社:平凡社
発行日:1991年10月17日




「別冊太陽〔少女マンガの世界2〕」4-6ページ
少女マンガの現在・過去・未来
前掲された後書きのように
米沢嘉博
(図版に続いてテキスト抽出あり)






少女マンガの現在・過去・未来
前掲された後書きのように
米沢嘉博


夢の変質にふれて

少女マンガ──この言葉の持つ響きは、人人にさまざまなイメージを抱かせることだろう。花、星、母、人形、涙、バレエ、オシャレ、夢、虹、恋……それはまた、読者と少女マンガの関係の上に湧きあがるイメージでもある。少女マンガは、少年マンガや青年マンガと違い、ドラマやキャラクターではなく、ムード、雰囲気、イメージといったものが大きな魅力となってきた表現だ。そして、少女のためのマンガである少女マンガは、長い間「少女」を主人公にし、読者である少女と夢を共有してきた。

いかに男性読者が増えようと、評論家や小説家が少女マンガについて語ろうと、「少女マンガ」は、読者の少女との関係において少女マンガであり続けてきたのである。幼い少女たちの不幸せなドラマに感情移入し、ロマンチックコメディーのステキな世界にあこがれ、ラブコメや学園ラブストーリーに共感とときめきを抱いてきた少女たちは、マンガがもたらすもの、その力に酔い、その力を手に入れようとする。だがそれは、実は、少女が夢見るために必要な「小道具」でしかなかったのかもしれない。

力は、マンガにではなく、少女たちの中にある。子どもたちは、マントやお面があれば空を飛べると信じている時がある。少女たちは、きれいなドレスやアクセサリーで少女スターやアイドルに変身できると思うし、魔法の言葉で幸せが訪れると信じる。少女マンガは、ドラマの中のディテールや小道具によって、少女をもうひとつの世界に誘い込み、夢に酔わせる。少女マンガは、夢見るためのきっかけだし、カタログだった。

高橋真琴や牧美也子、一条ゆかりの一枚のカラーの絵がもらさせる溜息、「りぼん」の付録がときめかせる恋の予感、かわいい女の子への変身の期待、吸血鬼のロマンが見せる異世界を生きる瞬間。それは、女の子たちの中で、心地良さとなり、イメージを形成していく。──だが、今、裕福さと物質の時代の中で、少女マンガの果していた役割は、別のものにとって代わられようとしている。

ヒランヤ、クリスタルペンダント、巷にあふれるオカルトアクセサリーは、夢見させると共に、自分を主人公にしてくれる小道具だ。占いやこっくりさん、おまじないは、まさに自分の恋を達成させてくれる魔法の言葉。ファッションやアクセサリー、化粧品は子どものためのものが次々と売り出される。痩身をはじめとした美容術も、きっと自分を美しくさせてくれるに違いないと、広告の向うからささやいている。男たちだって、車と流行のファッションを手に入れ、マニュアル通りにやれば幸せになれると信じている。夢や幸せは、より具体的に現実的になってしまった分だけ、手の届くところに降りてきた。そういった時代の中で、少女マンガと読者の間にあった幸せな関係は失われていく。……もう、少女マンガなんかで、夢見る必要はないのだ、と。


少女マンガの平成シーン

一九八〇年代に入って進行していった膨張、モブシーンの形成は、まさにさまざまな形で少女の夢を提示し、カタログのように広げて見せた。さあ、どれでも好きなのをおとりなさい、といった具合にだったが、そのことも、少女たちからの信頼を失っていった理由かもしれない。そうした状況の中で、少女マンガは物語本来の面白さやストーリーの面白さを味わわせてくれるホラー、サスペンス、ミステリーといったジャンルを今一度甦らせた。「少年」も新しいテーマだった。かつて、ボーイフレンド、お兄さんという形でしか登場できなかった少年は、七〇年代の変革の時代を経て、「人間」を描くための純粋な装置として働く一方、少女の仮装した姿として、少年同士の愛を疑似恋愛、SEXとして、虚構の向うに浮び上がらせる。もちろん、ダイレクトに、恋の対象としての少年、青年も描かれていく。マンガの中で夢見るのではなく、自らが夢見る対象をマンガの中に見出すこととは、虚構に積極的に夢見ていこうとする姿勢だろう。

マニアやマンガファンたちによって支持されていったこうしたジャンルは、八〇年代の少女マンガのひとつの主流となっていった。SFやファンタジー、冒険物といった、語り物の面白さは、マンガ本来が求めていたものだ。少年を主人公にしたそれも、より虚構性の強い作品世界を作っている。少女マンガは、フィクション本来の楽しさに立ち戻ろうとしているのである。

それと、もうひとつ忘れてならないのが、マンガによる作家と読者のコミュニケーション機能である。落書き、おしゃべり、遊び、少女マンガ家たちは、作品の中で、自分を出し、深夜放送的なおしゃべりを楽しんできた。読者はそれを受け止め、作家のパーソナリティーに親近感を覚えていく。そうやってマンガは、読者である少女と、元少女である作家のコミュニケーションの場となる。

同人誌においてそれはより顕著だ。既成のマンガやアニメの設定、キャラクターを借りて描かれるアニパロ(やおい)の場合、そこに読みとるべき物語はない。キャラクターはもちろん、既知のものである。そのキャラクター、作品が好きだというひとつの「夢」を共有する者同士のコミュニケーションこそが、作品である。自分の趣味やギャグセンス、ファッション、作品の解釈、変換させていくデフォルメのベクトル、味わわれるものはそういったものだ。読者が、作品を通して知り、感じるのは、作家の趣味や感性ということになるだろう。それを発信する側、受信する側に流れる感情は、ファン同士の共感だろうし、好きな作品をパロディーにし、それを楽しんでいるという共通意識である。

マンガは、そうしたコミュニケーションの手段でもあり得ることを、同人誌は教えてくれる。それは、八〇年代初頭、ラブコメというパターンを借りて「商品化」されていた、スタイルやセンスの形を変えた姿だ。そして、マンガは、手塚治虫の昔から、そうした役割を果してきたはずなのである。──コミュニケーションの手段、フィクションへの傾斜、……少女マンガは「夢見るための装置」から「夢の装置」へ変化しつつある。それは、マンガで夢見ようとする人達が減ってしまったことを意味している。

もともと、フィクションをフィクションとして楽しむことのできる層はそう多くはない。みんな、自らのノンフィクションに置き換え、引き寄せることで、フィクションを楽しむ。そうして、少女マンガは、時代そのものが少女マンガの予感させていたもの(つまり、アメリカ的裕福な、恋の青春)を現実にしてしまったが故に、そのフィクション性を喪失していったのだ。SFやファンタジー、少年愛といった虚構のフィクションだけが残った今、それを楽しむことのできる層は、そう多くはない。そのためには、知識と体験とコツがいる。少女マンガが一般から少しずつ離れていこうとしているのは、そうした理由のためな のかもしれない。

少女マンガは、マニアックな方向に向かいつつある。それは、一部、年少者対象の少女マンガを除いて、現在進行形の事柄なのである。……子どもは、いつだって夢見ているのだから……。


新たなる出発への予感

さて、今まで述べてきたような、現在の少女マンガ状況の形成は、この本に収められた昭和三八年頃にスタートした。アメリカの少女の青春、ライフスタイルへのあこがれ、週刊誌というメディアにおけるエンターテインメントの方法論としての連続ドラマ的展開の中から選びとられたのが、アメリカ映画の世界だった。ロマンチックコメディー、スペクタクルロマン、サスペンスロマン。銀幕の夢の世界の少女マンガ的展開である。

そこから少女たちの求めるものとして抽出されたのが「ボーイ・ミート・ガール」という恋の喜びを描いたラブコメだった。それはオズオズと、アメリカ少女を主人公に始まったが、やがて、日本の学園を舞台に、日本の少女の恋を描くようになっていく。このパターンの形成が、新人に場を与えていく。折しも、月刊少女雑誌、マンガで育てられたベビーブーム世代が、自ら表現する時代が訪れようとしていた。

少女のためのマンガであるが故に、限定され、枠をはめられていた少女マンガは、出来ないことが多すぎた。戦後世代は、マンガの自由さ、無限の可能性に全面の信頼をおくことで、こうした枠を破ろうと、さまざまな試みを行っていった。それが結実したのが、24年組の仕事や「りぼんコミック」グループの動きだった。

それらの作品に触発された次の世代は、自らの趣味性、感性に沿って、ある意味での縮小再生産、一部を取り出しての拡大を行っていく。そこには、この世の中にはもう新しい物語も、本当に新しいスタイルもないという遅れてきた世代故の開き直りがあった。ひとつのジャンルが成熟していく時にたどられるプロセスである。制約が多過ぎるが故に未発達だった少女マンガは、わずか数年で、あらゆる可能性を探り、活気のある状況を作り出したが、その後に待っていたのは、ジャンルとしての飽和状態だったのかもしれない。

にしても、魅力的な作品、新しい才能は次次と生み出されていった。──七〇年代以後の少女マンガは、ジャンルとしてのうねりではなく、示され、探られた可能性のひとつの結実、成果を確かめる場であったという気もするのだ。少女にとってのマンガの……。

そのことは、この本に収録されたきらめくような作品の数々が明確に語っている。今、そうやってたどりついた「大団円」(作品)の後日談が語られ、新しい物語の始まりを用意している時期なのかもしれない。まだ、平成はスタートしたばかりなのである。しかし、そのスタートは、四〇年以上にわたるこれまでの豊饒なる少女マンガの成果の上に行われることはまちがいあるまい。


ぼくと少女マンガと

ちょっとは後書きめかせたことを書かせてもらおう。ヴィジュアルムックという、たぶんマンガの流れをまとめるにはもっとも適した形で、しかも二冊にわたって少女マンガを扱えたことは、うれしいことだった。一九八〇年に書き下しで刊行した「戦後少女マンガ史」(新評社)で、図版を思うように使えなかった分だけ、たっぷりと細かく網羅しようと意図した。その代わり、一点一点の絵の魅力を味わうには、小さくなってしまったきらいはあるが、これだけの図版が一堂に会する機会は、これが最初で最後かもしれない。

少女マンガは、その絵が思い出なのであり、もうひとつの扉を開けてくれる鍵なのだ。言葉をどれだけ費やしても、マンガを十全に捉え、その魅力を人に伝えることは難しい。モノを見てもらうのが一番だ。──これまでのマンガの歴史や評論は、ストーリーやテーマを追うことに忙しく、絵について触れられることは少なかった。この二冊では、ストーリーよりも、絵や、夢の質について多く語るように心がけたつもりだが、読者の中で形を取る「マンガ」という表現の絵のもたらす効果について語ることは難しい。

しかし、こうやって、二冊に並べられた作品の数々を見る時、そのほとんどが、現在、単行本で読むことのできない現実を知らされる。その時代時代に人気を博した作品だけでなく、永遠に読み継がれていくだろうと考えられた古典でさえ入手は古本屋に頼るしかなくなっている。手塚全集でさえ、「黒人差別問題」が未解決の今、絶版扱いになっているのだ。ノスタルジーだけでなく、現在も古びていない数々の物語がちゃんと読める時代こそが、マンガの文化としての成熟ではないかという気もする。マンガで利益の出ている出版社は、そうした作品をそろえていくという形で、マンガに恩返しをすべき時が来ているのではなかろうか。

もちろん、この二冊に収録した数々の図版も、多くは個人のコレクションに頼るしかなかった。現代マンガ図書館など個人の図書館が頑張ってはいるが、少女マンガというジャンルがもっとも手薄であることは、想像通りだった。なにしろ膨大な数である。その中から、意図した作品、図版をうまく捜し出すことも難しかったし、結局、あきらめて代わりの物を入れた箇所も少なくない。

構成そのものは、『戦後少女マンガ史』を元に行っていったが、強引にまとめたところ、図版優先で構成したところも多い。そうした意味で、解説においての重複、言葉の足りないところも目につくだろう。また、短編作家は四色図版の少なさもあって扱いが小さくなってしまったし、細かい作品までふれられなかった。特に、一九七〇年代以後、作品数が増えてしまった時代の不備はぼく自身気にかかるところだ。幸い、七〇年代半ば以後の主要作品は、現在入手可能な作品も多いので、それは読む方々の中で「世界」を創りあげてもらえばいいのかもしれない。

小学一年生の頃から少女マンガにまで手を出していたから、もう三〇年以上読んできたことになる。いとこの家で冬休みに一年分まとめて読む「少女」「りぼん」は密やかな楽しみだったし、「なかよし」「少女ブック」はクラスメートから借りて感想をしゃべっていた。「ひとみ」は貸本屋から借り、さらに単行本まで手を出す。少年マンガや劇画を読んだ後という扱いだったが、結局、今まで、読み続けてきてしまった。ぼくは「少女」ではなかった。少女との関係の上に成立する「少女マンガ」を、ぼくはどのように読んできたのだろう。自らを少女に仮装させていたのか、それとも少年のキャラクターに模していたのか、少女にときめきを感じながらドラマを追いかけていたのか……たぶん、そのどれでもあるのだろう。もちろん、マンガとしての面白さが一番ではあったが、男性読者と少女マンガの関係論を、自分の中に探っていくことが、次の仕事なのかもしれない。それ以上に、こうした形の本で「少年マンガ」をまとめたいとも思うのではあるが……。

読者の人々の個々の想い出、想いに充分に応えることはできなかっただろう。それは、それぞれの記憶の中にしかない、イメージされたもうひとつの世界だからだ。思い出の中で全ては美しい。が、忘れてしまった人たちには、この本は、ひとつのきっかけを与えてくれるだろう。それは「少女の夢」を、自分の中に取り戻すことでもあるはずである。

(よねざわ よしひろ 評論家)

Menu

メニューサンプル1

管理人/副管理人のみ編集できます