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【竹宮惠子ロングインタビュー1「天馬の血族:完全版1」2003年】

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竹宮惠子ロングインタビュー1「天馬の血族:完全版1」
インタビュー構成:梅澤鈴代
収録日:2003年05月07日
収録場所:角川書店会議室
(図版に続いてテキスト抽出あり)







今年で作家生活35周年を迎えられた竹宮先生。
今回、最新の代表作『天馬の血族』完全版発売にあたって、その長いマンガ家生活のすべてを語っていただきました。
つねにトップランナーとして走り続けてこられたその原動力、
男女問わず夢中になる竹宮マンガの魅力、秘められたパワーの秘密、そして原点とは──?
全8巻に及ぶロングインタビュー、第1巻では、竹宮先生の幼少時代からマンガに目覚めるまでをお届けします。



感覚的には男の子に近かった

小さい頃から、プロが持っている道具が好きだったんですよ。ピカピカでしょう?

今はもう使っていないけれど大工さんが持っていたスミツボとか、ノミとかに惹かれましたね。使われている道具だけが持つ迫力みたいなものを感じていたのかも知れません。遊具も、遊園地にあるようなものより、父が作ってくれた木のシーソーが好きでしたね。もしくは、本当の木登りの方が楽しかった。塀から飛び降りて遊んだりもしました。どうせ 外で遊ぶならば本格的にアウトドアなことをしたかったんですよ。

だから、ままごとは嫌いでした。 仮の遊びじゃないですか? お人形さんごっこもそれほどは好きじゃなくて。友だちが持っているから、欲しいなとは思うんですけれども夢中にはなれないんですね。

女の子って最初は抱き人形やぬいぐるみから始めると思うんですけど、私はそのぬいぐるみの足をちょんぎっちゃった人ですから(笑)。特に理由はないんです。そうしたらどうなるのか、ただ知りたかった。人形だから痛い、という感覚がない。人形に生身を投影したりしないんですね。時計とかも、許されるのならばバラしたかった。叱られるだろうなと思うからやらなかっただけ。どちらかというと感覚的には男の子に近かったのかも知れません。

5、6年生の時に自分から行きたいと言いだして塾に行っていたんですが、その帰り道に用水があったんです。幅一メートルぐらいの、フナとかメダカとか棲んでいる大きめの用水なんですが、そこに飛びこんで魚を採るんですよ。それがすっごく楽しかったという記憶があります。でも別に、採るのが楽しいんじゃないんですね。金魚すくいをしたときもそうでしたが、採ることに目的がない。どういうふうに逃げるのか、跳ねる瞬間の動きを見るのが好きなんです。だから取れなくても満足。

それ以外は、すごくオタクに家で本を読むか、マンガを読むか、描いてるかって感じでしたね。テレビはあまり見せてもらえなかったんですよ。親が見るもので、子供が見るものじゃないって感じで。

中学生ぐらいまでは自由にならなかったですね。



俯瞰図の絵日記

私が絵を描きはじめたのは本当にごく小さくて、3つ4つの頃からなんですよね。最初はお人形さんを描いていたような記憶があります。やっぱりマンガの真似から入ったんじゃないかな。

わたなべまさこさんの「白馬の少女」とか、「山びこ少女」とかが好きでしたね。当時は本を買ってもらえなかったので、近所のお姉さんの家に行くときが読書のチャンスでね。だから、そこにあった本しか知らないんですが、その中でもタイトルをハッキリ覚えているのがこの2作です。 別にマンガが禁止、というわけではなかったんですけどね。ただ、そういう無駄なことにお金を使ってくれなかった(笑)。遊びのものを買ってもらうということはほとんどありませんでしたね。作ってくれることはあるんです。 シーソーとか積み木とか。

お人形さんの家……ドールハウスの簡易版みたいな感じのものが流行ったことがあるんですが、それも作ってくれたりしました。

父は土建関係に勤めていたので、そういう細工物に関してはお手の物なんですね。普通の人は持っていないような、すごく立派な家ができたんですが、すぐに飽きちゃって。持つともういいんですよ。その後はドールハウスの前に網を張って、鳥かごになりました。その鳥かご、一度学校に持っていったことがあるんですよ。家にはこんな鳥かごがあるという話を小学校でしたら、珍しかったんでしょうね、先生が持ってこいと言ったらしくて。本人は覚えてないんですけど、当時の絵日記にそう書いてありました。

絵日記が好きだったんですよ。得意だったし、誉められるというのもあって、気合い入れて描いていました。面白いのが、見下ろした風景を描いているんですね。俯瞰図で。自分が思ったことじゃなくて、人に見せることをハッキリ意識して描いている。それが我ながらおかしかったですね。



マンガ家入門との出会い

『絵』がマンガっぽくなってきたのは、小学校5、6年生の頃でしょうか。最初はいわゆるマンガという形じゃなくて、好きな絵に好きなセリフをつけてイトコたちに話したりしていたんですね。そうすると続きがせがまれるので続きを描く、それをくり返していくうちになんとなくストーリーっぽいものができあがっていっちゃった……みたいな感じです。この頃になると少年誌なども読み始めてました。どちらかといえば少年誌の方が好きでしたね。内容もそうですけど、少女誌より記事なども充実していてお得感があったんです(笑)。貸本では手塚(治虫)先生、白土(三平)先生をよく借りていました。

でも、当時描いていたお話はやっぱり少女マンガっぽいものでした。これは自分の絵柄のせいでもあると思うんですけどね。あとは、単純に自分が女の子だからということもあったと思います。読むときには少女マンガも少年マンガも区別なく読んでたんですけど、描くときには無意識的に女の子っぽいものを選んでしまう。

自分の中味が男の子っぽいことを知ってるから、なおさら仮面を被るようなところもあったんじゃないかと、今にして思います。また、読んでくれる人も女の子が多いわけですから、女の子向けの内容の方が喜ばれたんですね。 ちょうどその頃、石ノ森(章太郎)先生の「マンガ家入門」(*注 秋田書店刊。65年初版)という本があることを知るんです。借りた本の中に宣伝のページがありましてね。相変わらず本は買ってもらえないから、もう本を借りると記事のページから宣伝のページまで読み尽くすわけですよ(笑)。

今、学生に本の作り方なんかも教えたりするんですけど、本の構成とかはこの時代に覚えたことも役に立ってるなと思います。当時は、すでに何冊かマンガの入門書は出ていたんですが、プロのマンガ家が書いた入門書というのは、石ノ森先生が初めてだったんです。

「これは買わねば!」ということで、わざわざ本を取り寄せて買ったんです。この本にはとても影響されました。マンガはペンで書くと言うことも当時は知りませんでしたから。墨汁を使うことも初めて知って。「墨汁なら墨をすって使ってもいいのかな」と、試してみたんですが、薄くて使いものになりませんでしたね(笑)。つけペンって、濃くても薄くてもダメなんですよ。だから今、学校でも「インクの濃さには気をつけなさい」と言ってるんですが、あまりピンとこないみたいです。それって、プロになっていっぱい描くようになって、初めて気がつくことなんですね。私だって当時、専門的な道具なんて身近になかったですからね。マンガ家入門だけをたよりに、ちょっとずつ道具をそろえていった感じです。

プロの道具に対する憧れもあったんでしょうね。その中に羽ぼうきがあって、とても欲しかったんですが、さすがにこれは高くてね。大学生になって、プロになってからようやく手に入れることができたんです。それも、ある画材屋さんが焼け出されて、ちょっと焦げた道具を安く売り出したときに(笑)。それ、今でも持っていたりするんですけどね。当時はもったいなくて使えなくて、刷毛を使ってましたね。今ではさすがに羽ぼうきを使うこともありますけど。



燃やしてしまった幻の長編

そのマンガ家入門をもとに、ペンでマンガを描いたのが中学2年ぐらいだったな?

中学校に入るまでは、ずっと鉛筆でした。自分が考えてる話を家でちょっとずつ描いて……もったいないので、一気には描かないんですよ。3、4コマ描いて、つまったらやめちゃう。次の日、学校行っている間に続きを考えて、また家に帰って描くという生活を続けていました。ジャンルはバラバラでしたね。お話というより、自分が見たい場面だけ描くといった感じでした。いわやるヤオイ──本来の、ヤマなし、オチなし、イミなしという意味での──マンガですね。

でも、当時は女の子の方が描きやすかったので、女の子が主人公のマンガが多かったですよ。その中でも、16ないし32ページで90話ぐらい描いたマンガがあったんですよ。鉛筆描きでしたけどね。マンガ家になると決心したときにそれは全部焼いてしまったんですが、今から考えると、それは少しJUNEっぽいものだったかもしれません。少年探偵団の話だったんですけど、男の子の話だったので、それ自体が恥ずかしいと考えてしまったんですね。「親には見せられない」「妹にも絶対ダメ!」って。お風呂の焚きつけが私の仕事だったので、その時にチャンスと思って燃やしてしまいました(笑)。
参照【竹宮:中学時代に描いた2400枚と興味を持った時期

ただその近辺に、まともな話も描いているんですよ。普通の人が読んでも大丈夫な話(笑)。それは残してあったので、今大学に持っていって、生徒たちに見せたりしています。その頃がちょうど過渡期だったのかな。中学の終わりから高校にかけて、人に読ませることを意識した話を描くようになっていったんです。その前は本当に自己満足の世界で、とても人に見せられたものじゃなかった。

もちろん絵日記と同じで基本的には人を意識してはいるんですよ。他の人が読んでもわからない話ではないんですけど、自分が好きなものや見たいシーンが露骨にわかっちゃうから恥ずかしいんですね。別にきわどいシーンとか描いてるわけではないんですけどね。ただ、どっちかというとショタコンなんだなと、その頃に自覚しました(笑)。



見たものは何でも記憶

高校時代に描いた話は、あえて言うなら映画的なものでした。中学の半ば頃から、そろそろ自分でTVのチャンネルを選べるようになって、映画をたくさん見られるようになったんです。日曜日の3時頃から「嵐が丘」とか、ヨーロッパ系のロマンティックな映画をいっぱいやってまして、それが好きだったんですね。学校でも同じ趣味の友人と、「あれ見た?」とか話し合ったりして。自分で描くのもそういうドラマティックな話でした。ただ、子供が主人公なだけ(笑)。自分が子供でしたからね。

この間、学生にその頃の話を見せたら、描きたい場面だけじゃなくて、すべての場面にちゃんと背景が入っているのにビックリされてしまいました。必要なことは、なんでも抜かさずに描いていましたから。崖から落ちるシーンとかね。

こういう勉強を何でしたのですか、とよく聞かれるんですが、見て記憶したものなんですね。たぶん、同じ映画でも、私は人と違うところを見ているのだと思います。例えば同じ映画を二度見ることもあるじゃないですか。そうするともうストーリーはわかっているので、セリフは流して聞いて、見ているのはタッセルやハイバックチェアの形だったりするわけです。

私は、見たことを記憶するのは得意なんです。これだけは幼い頃からの自分の特徴かなと思っているんですが。例えば誰でも三輪車を見たことあると思いますけど、いざ三輪車を描くのって難しいじゃないですか。でも、私はそれを描けちゃうんですね。間違ったりしないんです。

自分にとって絵日記が簡単だったのも、それが理由なのかなと思っています。



初めて出したファンレター

実は、高校生の時、私は石ノ森先生のお宅にお邪魔したことがあるんです。それまで、私は作家の先生にファンレターを出したことがなかったんですね。ちょっと冷めている部分があるので、「どうせ出しても返事はこないだろう」と諦めていて(笑)。

でも、マンガ家入門の第2弾だったかな、石ノ森先生が最初の本を読んだ読者の質問に答えてらした本(*注「続マンガ家入門」66年初版・秋田書店刊)があったんですよ。それで、「ああ、こういう形ででも返答がもらえるならいいなあ」と思って、それで初めてファンレターみたいなものを出したんです。先生の話が好きだとか、マンガ家入門のことなんかを書いた後に、「同人誌を作りたいと思っているんだけど仲間がいない。どなたかご存じないですか?」というようなことを書いたんです。何しろ田舎でしたので、当時、私の周囲にはマンガを描くような人が1人もいなかったので、仲間が欲しかったんですね。そうしたら、なんと先生近辺の人からお返事が来まして。

当時、石ノ森先生のところに押しかけアシスタントに通っているような高校生たちが、同人誌を出していたんですよ。その中に入れてもらうという話になって、高校の修学旅行の自由時間に、先生のお宅にお邪魔しました。今から考えれば冒険ですよね。

その時、永井豪さんがチーフアシスタントだったんですね。ちょうど、駅前がたまたま縁日で。迎えに来てくれた高校生が「買ってこいって言われたから」と綿菓子を買っていったんですよ。先生のお宅で、永井豪さんが綿菓子を食べていたのを、今でも覚えています(笑)。今にして思えばとても贅沢な思い出ですよね。

今でもそれほどマンガ家と読者の距離は離れているとは思わないんですけれど、やはりあの時代は特別なものがあったかもしれません。

(「天馬の血族 完全版」2巻に続く)→【竹宮惠子ロングインタビュー2「天馬の血族:完全版2」2003年



全8巻データ(表紙・裏表紙・奥付)
竹宮惠子「天馬の血族:完全版」2003年

竹宮惠子ロングインタビュー
竹宮惠子ロングインタビュー「天馬の血族:完全版」2003年

対談:竹宮惠子・belne
対談:竹宮惠子・belne「天馬の血族:完全版」2003年

他の作家からの寄稿
Special message to Keiko Takemiya「天馬の血族:完全版」2003年

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