5ちゃんねる【萩尾望都】大泉スレ【竹宮惠子】に関する資料まとめサイト

【竹宮惠子ロングインタビュー2「天馬の血族:完全版2」2003年】

資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/168051...



竹宮惠子ロングインタビュー2「天馬の血族:完全版2」
インタビュー構成:梅澤鈴代
収録日:2003年05月07日
収録場所:角川書店会議室
(図版に続いてテキスト抽出あり)







作家生活35周年を迎えた竹宮先生がこれまでの軌跡を振り返る全8巻のロングインタビュー!
幼少時代からマンガに目覚めるまでを語った第1巻に引き続き、2巻ではいよいよ漫画家デビュー。
慎重なようでいて大胆、それでいてクールな先生が辿った漫画家への道は、やっぱり普通ではなかったようです。
1年間の休業生活の真実、そして人との縁を大切にする先生の華やかな交友録を語って頂きました。



揺るがなかった気持ち

高校生の時、初めてペンで描いたマンガを「マーガレット」(原文ママ)に投稿するんですが、もちろんダメでね。確か16ページぐらいだったんじゃなかったかな。その時に入選されたのが里中(満智子)さんだったんですよ。その作品を見て、「あ、まだまだダメ」って思いましたね。
参照【竹宮:1964年講談社第1回新人漫画賞→名前が載った

この頃には、親にも「マンガ家になりたい」って宣言してました。でも、親としては反対しますよね。「そんな水商売なんてとんでもない」って感じで、けんもほろろだったので、そのうちに言わなくなってしまいました。卒業する段になって、私が「大学受けない」って言いだしたものですから、「それなら就職しなさい」って言われてしまったんですね。

なれるかどうかもわからないもののために無駄飯は食べさせないと。仕方ないので大学を受けたんです(笑)。就職するよりは描く時間があるだろうと思って。もし、あの時に就職していたら、大学生になったときほどガリガリ描いてなかったかも知れませんね。

お前はやればできる頭を持ってるんだからって、親にはしょっちゅう言われてました。でも、やりたくなかったんですよ。受験自体をくだらないと思っていたんですね。将来、必要だと思えないものを勉強する意義が見出だせなかった。当時は描くことに一生懸命で、他に時間を割きたくなかったということもあります。だから入試の勉強中、学校から勝手に帰っちゃったことがあるんですよ。応募原稿で徹夜していたので、学校行ったら眠くてたまらなくて、とても勉強にならなかったんですね。だったらいっそのこと早引けしてしまえと。後で先生に理由を説明したら、「ちゃんと言ってから帰りなさい」と叱られました。でも、言ったら止められますよねえ(笑)。今はできるかも知れないけど、当時はそんな理由で帰る人はいなかったので先生も驚いてました。とにかく、やっててムダ、ということが嫌だったんですね。 時間がもったいなかった。

「私、マンガ家になるの」と言うと、友だちには羨ましがられましたよ。「いいな、決まっていて」って。まだデビューしてなくて、全然決まってないんですが(笑)。そういう意味じゃなくて、何をやりたいのか決めていることが羨ましかったみたいです。まだ高校生でしたから、普通は何になりたいかなんてわかんないですよね。

当時、クラスにノートがあったんですよ。クラスの人間なら書きこみも閲覧も自由なノートで、クラスメイトはそこに悩みとか書いていたんですが、私は物語を書いてたんですね。それをみんながいつの間にか読んでるんです。先生まで読んでる(笑)。その話を先生が気に入ってくれて、こんなの書くんだったら児童文学やらないかと言われたんですね。でも私は「児童文学も好きだけど、マンガがやりたい」と断ったんです。その時に「もう(自分の進路を)決めているのがすごいわね」というようなことを言われました。

言われてみれば、マンガ家になるという気持ちは、一度もゆるがなかったですね。子供の頃からマイペースだったから、そのせいでしょうか(笑)。



佳作入選が方向性を決めた

高校を卒業する頃になると、何度か「COM」(*注 虫プロ商事発行・66年創刊のマンガマニア誌)に応募して、「新人として4ページ描きなさい」と言われたりしていました。でも、まだちゃんとデビューはできてない状態だったんですね。そうしたら、入試の準備をしている頃だったかな、西谷(祥子)さんから手紙が来まして。石ノ森先生のところに肉筆同人誌とかを送っていましたから、それを見て描けるんじゃないかと思ってくださったんでしょうね、「マーガレット」の新人賞に応募しないかと誘っていただいたんです。
参照【竹宮:西谷祥子先生から直筆の手紙が届いた

里中さんが入選した新人賞に応募して以来、賞には応募してなかったんですが、そこでまたチャレンジしてみました。結果は佳作入選。「リンゴの罪」という、16ページの地味な話でした。当時は「COM」の影響で子供向けの話が描きたいと思っていたので、そっちの方向に引っ張られていたんですね。西谷さんが見て、応募しなさいと言ってくれたのは、たぶん同人誌に描いた方の「ナイーダ」だと思うんですよ。それは週刊誌連載を意識して、16ページごとに引きが来る話の作りをしていました。それが同人誌に一気に4回分載っていたんです。

新人賞に入選するには、ああいう華やかさがあった方がいいんでしょうね。なのに、私は地味な話を送ってしまって(笑)。

その地味な話を認めてくれたのが集英社の倉持さんなんです。漫画家のくらもちふさこさんの叔父さんなんですけど。普通なら新人賞の受賞作で雑誌に載るのは入選作ぐらいですよね。佳作の「リンゴの罪」が「マーガレット」の増刊に掲載していただけたのは、倉持さんのおかげです。
参照【尊敬に値する人ですね:ぶ〜け副編集長・倉持功

「マーガレット」の新人賞でもっと少女マンガっぽいもので入選したら、その後のマンガ家としての進路は違っていたんでしょうね。でも私は「COM」で入選したくて、そっち向いてたので(笑)。その頃、自分にとっていちばん面白かったのが「COM」だったんですね。正直に言うと、少女マンガはあまり好きじゃなかった。このことが自分の方向を決めることになったなと、今にして思います。



1年間の休業宣言
参照【竹宮恵子「一年間休みました」について

佳作入選はしましたが、まだ正式にデビューというわけではなかったし、一応、受験して大学には入りました。でも、そこで1年間マンガを止めてしまうんです。あんなにマンガを描くことが好きだった自分が、それを止めていいと思うほどのものに出会ってしまったんです。いわゆる学生運動ですね。

といっても、自分は変わり種で、アナーキーな動き方をする人間だったようです。民青系と闘争派、両方のグループの集会に出たりしていました。京都大学に角棒振りに行っちゃうような人とも親しくしていたんですよ。幹部会みたいなのに連れて行かれたこともありました。「(竹宮さんは)変な人だから参加させてみろ」と、上の人に言われたらしいです。みんなが忘れていることを冷静に指摘して、その場の熱を一言でおじゃんにしちゃうみたいなところがあったんですよ。その場に馴染めなくて帰っちゃったりもしましたね。マイペースなところは相変わらずで(笑)。

でも、あの経験は本当に貴重なものだったと思います。今、ここを去るのはもったいないと、感覚的にそう思ったんですね。だから1年間まったくマンガを描かなかったんです。

編集さんにも「すみません、私この1年は描かないので!」とハッキリ宣言してました。で、1年経って最初に電話をくださったのが小学館の山本さんだったんです。それで「森の子トール」を週刊連載することになったんですが、ちょっと揉めてしまったんですね。私としては単純に先着順で決めちゃったんですけど、そういうわけにはいかなかったみたいで。当時は講談社ともつきあいがあったし、佳作作品を乗せてくださった集英社にも恩義があるわけでしょう。だから「小説ジュニア」 (*注 集英社発行66年創刊)にマンガ「白い水車小屋」(*70年2月号掲載)を掲載する運びになったんです。その時に倉持さんが編集長だったんですよ。初めての小説誌でのマンガ掲載だったと思います。



初めてのカンヅメ

東京に出てくることになったのは、「アストロツイン」(*「なかよし」(講談社) 70年4〜6月号連載)を描いているときですね。最終回あたりで締め切りを守れなくなって、東京でカンヅメになったんです。その時に萩尾望都さんと知り合いました。アシスタントをしてもらったんです。その頃、もう萩尾さんも「爆発会社」(*「別冊なかよし」 70年虹色のマリ特集号掲載)を描いていて、私はそのお話が大好きだったんですね。そうしたら、編集さんがたまたま「今、(萩尾さんが)来ているよ」と教えてくれて、アシスタントをお願いすることになったんです。

私はもともと仲間と作業をするということに、ものすごく憧れを抱いていたんです。でも地方在住だし、そういうことはできないだろうと諦めていただけに、その時はすごく楽しくて「また一緒にできたらいいね」なんて、萩尾さんと話してました。

そんな時に、私の独り暮らしの話が持ち上がったんです。当時の私は「アストロツイン」 の連載中に、「森の子トール」(*「週刊少女コミック」(小学館)70年3〜7号連載)の連載が始まって、講談社(アストロツイン)のカンヅメが終わったら、今度は小学館(森の子トール)のカンヅメ……みたいな感じで、ぐちゃぐちゃになってたんですね。

このまま両方をやっていたらさばけないだろうと、講談社と小学館の編集さんが話し合って、結局講談社さんが諦めてくださる形で、小学館さんが私を引き受けることになりました。私も私で親に電話して、「やっぱり東京にいないと遅れちゃうから、出て来たい」と相談したんです。

そうそう、この時に本宮ひろ志さんとも会っているんですよ。小学館のカンヅメ用の旅館で錦友館という古い旅館があったんですが、そこに本宮さんもいらしていて。「新人の少女マンガ家が来ているらしい」ってことで、 見物に来たみたいです(笑)。あちらは覚えておられないと思うけど。

ともあれ、なんとかカンヅメを終えて家に帰ったわけですが、用意周到に事前に親に電話して覚悟を決めさせておいたので、母親はもう反対できなくなってたんですね。「お父さんに聞いてみなさい」と言うから、父親にこれこれこういうわけでと説明したんですよ。そしたら「じゃあ、行ってみるか」と。何の反対もなく、すんなりとOKされてしまいました。

たぶん私の動きは、父親にとって息子に近いものがあったんじゃないかと思います。放っておいてもどんどん進んでしまって、止められないなと。だから「男だったらなあ」とはよく言われました。本音を言えば、できれば嫁に行って子供を作って欲しいという気持ちもあったんじゃないかと思うけど、そういったことは一回も言われたことはありませんでした。



大泉サロンの始まり
*参照【竹宮惠子:マンガナビ「大泉サロン」について

初めての独り暮らしですから、東京には母がついてきてくれて、最初の支度をしてくれました。

下宿は小学館の山本さんが用意してくださったんですが、日本家屋を持っている人がお庭に離れを建てて、二部屋しかない部屋を貸しているところだったんです。今はたぶんマンションか何かになっているんでしょうね。大きな通りの側で交通の便はいいけど、大家さんの家の庭だから大家さんに挨拶しないと入れないような、すごくカタい下宿だったんですね。今でも山本さんはよく言われるんですが、 「青田買いして若い女の子を東京に住まわせて、責任取れるのか?」って思っておられたらしいです。だから、絶対に安心なところを選んでくださったみたいです。

でも結局、私はそこに半年しかいませんでしたね。大泉のアパートで萩尾さんたちと暮らすようになったので。東京に出る話が本格化したときに、萩尾さんに「一緒に住まないか」と何度か話したことがあったんです。でも、その時はまだあちらの準備が整わなかった。

だから私が先に東京に出る形になったわけです。私は「このままここでずっと独り暮らしをするのかな」なんて思ったりしたんですが、その間に萩尾さんと萩尾さんの文通友達だった増山のりえさんとの間で東京に出てくる話が固まってきていたんですね。で──当時のマンガ家たちはみんなそうだったと思いますが──私たちは、トキワ荘(*豊島区椎名町にあった伝説的なマンガ家アパート)に憧れを持っていまして。あれを女性マンガ家だけでやろうよと、思いたったのが増山さんだったわけです。萩尾さんと私を一緒に住まわせれば、自然と誰かが集まってくるだろうと。私はそれほど明確な意志は持ってなかったんですが、トキワ荘に対する憧れは当然ありますし、仲間と作業すること自体、ずっとやりたかったことなので、仲間が増えていくのは楽しかったですね。(*この集まりは、現在ではトキワ荘に対して大泉サロンと呼ばれている)



八百屋で思わず泣きそうに

独り暮らしの時も、あまり料理は作りませんでしたね。洗濯とか掃除とかはやらなきゃいけないからやってましたけど、それも1週間に一回まとめてとか。私は話作りが簡単にできる方じゃなかったんですね。自分でいいと思える話を作るのにものすごく時間がかかった。そうなると話を作るため以外のことに時間をとりたくないいから、どうしても食べることなどに注意を払えなくなってしまうんです。だから、その辺の喫茶店なんかによく食べに行っていました。

マンガ家って、ほとんど家にいるでしょ。独り暮らし時代、誰とも喋らないことが辛くなると八百屋に買い物に行ってました。八百屋のおじさんに声をかけられて、泣きそうになっちゃったりとかしましたよ(笑)。「久しぶりに日本語話せた」みたいな(笑)。

親にはあまり電話はしませんでしたね。泣きごと言うのは嫌でしたから。やっぱり、自分の勝手で出てきたという気持ちがあるでしょう。親には親のプランがあっただろうし。私たちの世代は親に世話をかけてるという感覚がすごく強いんです。だからこそ、独立心も強い。勝手な行動で自分の好きな道に来ているんだったら、親に泣き言なんか言わない! と思ってました。お金なんか絶対借りませんね。友だちに借りても親には借りない。東京に出てから、お金を送って貰ったことは一回もないと思います。全部自分の原稿料でまかなう。それができるようになったから、出してもらえたという面もあります。

(3巻へ続く)→【竹宮惠子ロングインタビュー3「天馬の血族:完全版3」2003年



全8巻データ(表紙・裏表紙・奥付)
竹宮惠子「天馬の血族:完全版」2003年

竹宮惠子ロングインタビュー
竹宮惠子ロングインタビュー「天馬の血族:完全版」2003年

対談:竹宮惠子・belne
対談:竹宮惠子・belne「天馬の血族:完全版」2003年

他の作家からの寄稿
Special message to Keiko Takemiya「天馬の血族:完全版」2003年

Menu

メニューサンプル1

管理人/副管理人のみ編集できます