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【萩尾望都を読み解くための36のキーワード】
キネ旬ムック「マンガ夜話」Vol.2


キネ旬ムック「マンガ夜話 」Vol.2
出版社:キネマ旬報社
発売日:1999年01月01

資料提供
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/163456...


参考
ヤマダトモコ氏の仕事についてはこちらもどうぞ
マンガ用語〈24年組〉は誰を指すのか?
http://www.toshonoie.net/shojo/05_list/yamatomo_wo...



萩尾望都を読み解くための36のキーワード
ヤマダトモコ・編集部
(画像に続いてテキスト抽出あり)













萩尾望都を読み解くための36のキーワード
ヤマダトモコ・編集部

【あ行】

アブサント
『お酒の話』という萩尾望都のエッセイ(『思い出を切りぬくとき』所収)に、クノーの『イカルスの飛行』に登場したこのお酒についての記述がある。
「お酒を注文すると、角砂糖とお水がついてくるのです。それで角砂糖をスプーンに置いて、その上から水をたらすと、水が砂糖をとかしながら、アブサント酒が白濁してゆくのです!」
ロマンチックなその記述に感動した萩尾は、さっそく娘が養父にいつもアブサントをつくってあげるというエピソードを、そのお酒を実際に飲んでみる前にマンガに描いた。その後たまたまこのお酒を手に入れ、なめただけでそのアルコール度の高さにびっくり。辞書で調べて2度びっくり。にがよもぎ! から作られたお酒で、強度のアルコールであり、フランスの労働者階級が好んで飲む。と書か れてたのだそうだ。
「なに、日本で言えば、いも焼酎じゃありませんか(好きだけど)。ムードが!」
このお酒が登場する作品はポー・シリーズの『ピカデリー7時』。翻訳の違いだろうが「アブサント」は日本では一般に「アブサン」で通っていて、水島新司の『あぶさん』の主人公が最初に登場するとき、このお酒を飲んで酔いつぶれている。『ポーの一族』と『あぶさん』の意外な共通点……。両者がマンガに登場させた70年代にはもう、このお酒はまぼろしの酒になりつつあったらしい。しかし、このお酒には「緑の妖精」なんて美しい呼び 名もあるのだそうだ。
(ヤマダ)

アルシュ
フランス製高級水彩紙の名前。98年に発売された萩尾望都のCD-ROMによると、発色がよいと木原敏江に紹介され、一時期2人で大量に買い込んで使うのに大変だったらしい。作者がカラーイラストを描く際には、この紙とカラーインクと、透明水彩絵の具を主に使用しているようだが、一方で自分には高級でもったいない紙だとも記している。
ちなみにマンガを描くとき使用しているペン先はGペンだそうだ。(『少女まんが入門』鈴木光明 78年より)
(ヤマダ)

いちごいため
萩尾の友人で、コママンガ『ふーちゃん』の作者いまいかおるの言によると、下井草のアパート時代、冷蔵庫がなくて、萩尾はなんでもいためて食べていたようだ。いまいはよくきゅうりや、いちご(!?)のいためものをごちそうになったんだって。(77年『女性セブン』参)
(ヤマダ)


作者は、27才の時にはすでに家を購入している。埼玉県にある建売の一戸建て。当時はまわり中ずっと茶畑で、家を買うときの条件は、視線が右から左に走るのが好きだから、広て遠くまで見えるところ、だったそうだ。96年の『ダ・ヴィンチ』の記事によると、80年31歳の時に、同県に現在の自宅を建てたということである。始めに建売を買い、数年後、家を建てたんだろう。
(ヤマダ)

イガグリくん
萩尾が読書家なのは有名だが、マンガもたくさん読んでいるのだなあと思える例を二つ。
「萩尾:私ね男の人のうじうじってすごい好きなんですよ(笑)。だって、イガグリ君みたいな人を夫にもってごらんなさい。世の中はもう明るくて、こまごましたことなんかは全然気にかけてくれませんよ。『お母さんと仲が悪いの? アハハハ」とかいわれて。(笑)
そういった意味でいくと、うじうじという部分に、心のひだを理解する創造力とか、ファンタジックな精神が随分あると思うんです」 (「潮」4月号より)
また現代洋子の『おごってじゃんけん隊』では、”萩尾「スピリッツでは『じみへん』が好きですね。」現代「あーっ、わたしもーっ♪」萩尾「『じみへん』のペンタッチで『Happy!』を描いたらどうなるのかと想像するの楽しくて。」現代「え…」”(98年『ビックコミックスピリッツ』3号より)
(ヤマダ)

映画エッセイ
作者は80年代後半に、映画誌でかなりまとまったエッセイを書いている。「スクリーン」に85〜88年にかけて掲載されている『モトちゃんのシネマ・シリーズ』、彼女の好きなジャッキー・チェン関係の記述を始め、演技派じゃないけどマット・ディロンが好きだとか、「キャメロンに『ゴジラ』をつくってもらおう!」とか、ショーン・ペンの泣き顔がいいとか、アラン・レネ監督や、ロバート・デニーロの大ファンだとかいった内容の、楽しめるマンガエッセイだし、「キネマ旬報」に87年〜89年にかけて掲載されている『余談ですが』は活字中心で、面白くなかった映画についても、なぜ面白くないかをかなり具体的に分析していたり、『戦艦ポチョムキン』の乳母車のシーンの意味を延々考察していたり、萩尾マンガの創作のヒントがかいまみえるような興味深いエッセイである。両方ともなかなかおもしろいのだが、なぜか本にまとまっ ていない。
(ヤマダ)

エスペラント
バンパネラというのは、どうやら造語らしい、と人づてに聞いた。一時期萩尾と同世代のマンガ家の間で造語をつくるのがはやっていたので、その流れかと推測する。例えば、大島弓子がマンガのタイトルに『シンジラレネーション』、『雨の音が聞こえる』のサブタイトルに「ラ・レッセー・イデン」とつけていたり、木原敏江がソドミィをもとにして、ソドミアンという言葉を造り、『摩利と新吾』の正式なシリーズ名が『ヴェッテンベルク・バンカランゲン』(ウェットで蛮カラな、というのをドイツ語風にしたもの)だったり…。 とすると、バンパネラはバンパイヤプラス何だろう?
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のカンパネルラからじゃないか? とするとルーツはエスペラント語じゃないか? という人がいた。そういえば萩尾の『ミーア』という作品に「エスペラントできるか?」ってセリフがあったっけ。「広辞苑」によると、ルネサンス期のイタリアにカンパネラという哲学者がいたということ。宮沢作品のはこの人からとられた名前か?? そういえばパガニーニの「ラ・カンパネラ』って曲もあるなあ。
色々想像を膨らました後、ホントのところは萩尾が、バンパイアをバンパネラと間違えて記憶していてそのまま使用し、結果造語になってしまったらしい、と聞いた。
(ヤマダ)

大島弓子
77年の「プチ・コミック」で好きな少女まんが家を質問され、萩尾望都は、「大島弓子さん。彼女の作品はすべて好きです。」と答えている。18年後、『愛と暴力について考える10冊』(『ダ・ヴィンチ」95年8月号)というインタビュー記事でも、彼女が紹介した10冊中マンガは唯一、大島の『ロストハウス』だった。そこでは「大島さんの描かれる世界観は私にはないから、憧れなんですよ。一番好きなのは『バナナブレッドのプディング』ですね。あれを読んだときはずいぶん考えましたね」。と述べている。
大島も萩尾作品が好きらしく、大島弓子選集2『ミモザ館でつかまえて』のコメントで、『さくらさくら』というマンガについて、萩尾作品が好きだったため「影響とマネの区別がなかった」と書き、同作はその選集に掲載されていない。また大島は、76年に刊行された、 萩尾の小学館文庫『精霊狩り』の解説を書いている。
(ヤマダ)
参考【文庫本「精霊狩り」あとがき

お菓子
デビューから数作の萩尾作品には、バラなどの華麗な花がほとんど描かれない。初期萩尾作品において、通常の少女マンガで、本来花があるべきところに描かれていたのは、お菓子だと思う。例えば、デビュー作『ルルとミミ』にはお菓子コンテストに登場したはいいけど、会場はパイ投げになってしまう、というエピソードがでてくるし、続く『すてきな魔法』の表紙は、お茶とパンケーキのあるテーブルの側に、横向きの女の子が腰掛けている、というもの。4作目『爆発会社』のラストは、いちご味ばかりのお菓子会社をつくる、というものだった。原作付きだが、6作目の 「ケーキケーキケーキ』は菓子職人を目指す女の子の話で、最近女性マンガによく描かれている、女シェフもののはしりみたいなマンガである。77年の『女性セブン』でのインタビューで萩尾は「お菓子と少女マンガっていうのは似てますね。ふわふわしていて、甘くって…。」と述べている。95年の「imago」4月号での対談では、「萩尾の初めは、マンガイコールお菓子みたいなところがあった」と指摘され「担当編集者に『あなたの作品は生活感がないから、もっと生活感を出すように』っていわれたことがあるんです。しょうがないから何か食べさせようと思って、やたらお茶のシーンとか食事のシーンを出した。そしたら『こういう意味じゃない』って言われました(笑)」と述べている。
(ヤマダ)

親殺し
死(殺人や自殺)のモチーフは、ごく初期の頃から萩尾作品に登場しているが、近作にいたるまで、特に目立つのは「親を殺す」というもの。71年の『かわいそうなママ』は、想い人が忘れられずいつも不幸そうな母を、殺してしまう少年の話であった。98年 「WIRED」のインタビューで、萩尾は「最初は自分では気づかなかったのだけど、デビューして2年目ぐらいに『あなたの作品って、いつもお母さんがいなかったり、死んだりするのね』って言われて、『あれそうなのかな?』って。それで、母親を登場させたくない自分の内面心理について振り返りはじめたりしました。」と述べている。
これ以前にも『メッシュ』のハードカバー版1巻のあとがきで「もしも主人公(メッシュ)が親殺しをしてしまったら、
1・自殺する
2・発狂する
3・病死する
どう考え てもこの他の例が浮かばない。」と記している。メッシュでは親殺しは起こらないが、85年に連載開始された『マージナル』は、ほとんど男しかいない世界での、唯一のマザ(母親)の暗殺をめぐる物語だ。92年に発表された、親殺しに発展してもよさそうな、母の娘いじめの物語『イグアナの娘』では、母の死後ではあるが、それを許すという結末が描かれたのは、萩尾にとってフィクションにしにくい設定だったためもあるのではないかと推測する。同年に連載開始された『残酷な神が支配する』は少年が実母と義父を殺してしまう話だ。
萩尾は95年『ダ・ヴィンチ』のインタビューで、こうも述べる「思春期に自我を確立させるためには、通過儀礼としての『親殺し』をしなければならないというのがありますけど、それをし損なった人は、大人になりきれないというか。」「親っていうのは子供に見捨てられるために存在するんですよ。見捨てたら、子供は大人になった時、またかえってきてくれる。」
(ヤマダ)

音楽
彼女のマンガで音楽に関係しているものは著者の知る範囲では以下の通り。『完全犯罪(フェアリー)』、『銀の三角』、『モザイク・ラセン』、『海のアリア』(海で死んだ少年に宇宙生命がとりついた、それが命のある楽器だという設定。この説明ではよくわからないか。)バレエものも音楽に関係あるといえばあるだろうが、ここには含めない。
(ヤマダ)

【か行】

キイロックス
福岡時代、萩尾が所属していた同人誌の名前。同人誌の会長兄弟がつけた誌名で、手塚治虫のヒョウタンツギが黄色い毒ガスをはくので、その兄弟が、ヒョウタンツギに黄色い色をぬっていたことから、「きいろくなあれ〜」”キイロックス”になったとか。『マドモアゼル・モーツァルト』を描いたマンガ家、福山庸治も参加していたらしい。萩尾作品『ごめんあそばせ』に”ザ・キーロックス”というアマチュアバンドがでてくるのは、多分このサークル名がもと。デビュー作『ルルとミミ』にもこの語はでてくる。(『萩尾望都の世界』参)
(ヤマダ)

キャベツ畑
70〜72年の間、練馬区大泉で、萩尾が竹宮恵子(現・惠子)と共同で借りていた家、俗にいう大泉サロンは、 キャベツ畑の隅っこにあった。彼女はこれが気に入っていたらしく、キャベツ畑を舞台にした『キャベツ畑の遺産相続人』を描いている。
(ヤマダ)

【さ行】

資質
81年「ユリイカ」臨時増刊での対談で、萩尾望都が、
「たとえば自分の嫌いなタイプがかけないっていうのもひとつの逃避だろうなあと思っていたんだけど。いやな部分はかきたくないとかね。」
と言ったのに対して、対談相手の吉本隆明は、
「それはあなたの資質の問題ではないでしょうか。こういうことじゃないんでしょう、つまり、もともと少女マンガってのはこういう世界をかいちゃいけないんだみたいのがあって、かかないってわけじゃないでしょう。」
もちろん否定した萩尾に、吉本は
「それじゃ逃避じゃない、と、ぼくには思われますが、どうでしょうか。」
と言う。そしてしばらく対談が続いた後、
「さきほど、いやな性格の登場人物はかきたくないとか、ドロっとしたような、ねちょっとしたような、そういう世界にあまり執拗にこだわりたくないみたいなこと、言われたでしょう。それは、その制約というのは、たとえば自分がとっ払ってもいいと、心からそういうふうに思えたときには、もうとっ払っちゃうというふうにお考えですか。」
と聞いた吉本に、萩尾は
「どっちかっていうと、そうじゃないかと思うんですね。結局やんないとね、胃炎をおこすし、(笑) かきたかったらかいてしまわないと。」
と答える。
最近の萩尾作品を考える上で、この吉本のとのやりとりは、とても興味深いもののように思える。
(ヤマダ)

下井草のアパート時代
キャベツ畑の隅にあった大泉の借家で、大勢の若手マンガ家・編集者・マンガファンらと出会った後、萩尾は、杉並区の下井草に引っ越した。76年までここに住んで、いまいかおる、木原敏江などと親交を結ぶ。この頃、旧ソビエト、イギリスへの短期語学留学などたくの(「たくの」原文ママ)海外旅行にでかけている。
(ヤマダ)

ジョージィ・ポージィ・プリンにパイ
萩尾が好きなマザーグースの一節。この語が登場するマンガは、ポー・シリーズ『一週間』、『ママレードちゃん』、『キャベツ畑の遺産相続人』(主人公の3人のおばの名前が、パイ家のジョージィ・ポージィ・プリン)である。
原文は
”Giorgie Porgie, pudding and pie,
Kissed the girls and made them cry,
When the boys came out to play,
Giorgie Porgie ran away”
(「THE OXFORD DICTIONARY OF Nursery Rhymes」 Edited by IONA AND PETER OPIE/OXFORD UNIVIRSITY PRESSESより)
(ヤマダ)


カフカの『城』について萩尾が書いた以下のような文がある。
”主人公はお城に行こうとする。(略)でも、何かいろいろと都合が悪くて、結局村をウロウロしている。そして、いきなり話がおわる。「なんだ、これは」。『城』は未完の作品なのだ。死後、自分の作品はみ な焼くようにといったカフカの遺言を友人は守らず、作品のすばらしさに打たれて世に出したのが、カフカの『城』をはじめ一連の作品だという。 私ならためらわずに焼いただろうと思うと、自分の感覚が純文学や芸術からはるかに遠いのだと思い知らされる。"
この文は、岡田史子の『ガラス玉』(朝日ソノラマ、76年刊)に書かれた解説の一部で、つまり、「岡田の作品が芸術かどうかは自分にはわからない。私が何を基準に芸術と評価するのかわからないから。ただ自分が岡田の作品が好きだというのはわかる。」という主旨なのだが、萩尾が「マンガを芸術と並行して評する事」を、どう考えていたかがかいま見えて興味深い。この文から8年後の84年、萩尾作品の『城』が発表される。この作品が、カフカにインスパイアされた作品なの かどうかはわからないが。
そういえば現在萩尾望都のマネージャーをしている方は、城(じょう)章子という。
(ヤマダ)

白ケムシ
萩尾望都は、多くのマンガ家の例にもれず猫が好きである。白ケムシは以前萩尾が飼っていたネコの名前で、マンガ仲間や友人たちにとても可愛がられていた。77年『女性セブン』 のインタビューによると、萩尾は最初”サラダ”とつけたのだが、友だちがケムシみたいといったことから、”白ケムシ”に。白ケムシはある日でていって帰ってこなかった。その後78年にセラ、モモ(名前の由来は世良公則と山口百恵)を飼いはじめるが、モモは交通事故にあって亡くなる。翌年セラが5匹の子猫を生み(名前の由来が世良公則なのにメスだったの?)、そのうち2匹を残して飼う。名前はラムとミー。ラムは96年に逝去。(C DI-ROM『Sanctus』参)
(ヤマダ)

線のタイプ
”「少年チャンピオン」に連載したときに気づかされたことがあります。少年マンガの線っていうのはタフで筋肉質なんですね。丸く太い線というか。それに比べて私の線は細すぎる。青年誌なら違和感ないかもしれないけど、少年誌では高橋留美子さんぐらい線が元気じゃないと駄目なんです。逆に男性作家でも石ノ森さんの線はデリケートで少女マンガっぽい。少年誌への向き不向きは、線のタイプでかなり決まります。”と萩尾望都は述べている。(98年「WIRED」3月号より)
(ヤマダ)

スタジオ・ライフ
86年に結成された男優集団。この劇団によって、98年に『トーマの心臓』が、98年に『訪問者』が舞台化されている。両方とも倉田淳演出。
萩尾は、『訪問者』のパンフレットに、『トーマの心臓』の舞台を観ていたところ、それを描いていた26歳の時にタイム・スリップし、原画が動いているかのような錯覚に引き込まれてしまったと書いている。
(ヤマダ)

【た行】

だあれが殺したクックロビン
有名なマザーグースの一節。『ポーの一族』シリーズ中『小鳥の巣』で使用されている。魔夜峰央の『パタリロ』に登場する、「クックロビン音頭」は、マザーグースの引用というより、萩尾マンガの引用だろう。
(ヤマダ)

手塚治虫
萩尾は、自分がマンガ家になる動機となったマンガは、手塚の『新選組』である。と、あちこちで述べている。実際、今手元にある資料でもこのエピソードが書かれたものが7〜8つある。このエピソード以外で、萩尾が手塚について述べている部分を2つほどあげてみよう。 「私は、否定された世界、喪失されたほうはどんな世界なのかというほうに関心が向かった。そのときに、手塚先生のマンガがさまざまな解答や癒しを与えてくれたんです。手塚先生は弱者や悪者の”なかなか見えないもう半分”を描いていますよね。」(96年「ダ・ヴィンチ」7月号より)
「私自身、手塚さんに非常に影響を受けているのですが、彼が一貫して描いていたのは、対立する環境や民族の中に入って苦悩する人物なんです。」「私が彼にインプットされたことは、『平等というのは素晴らしい、差別は恥ずかしい』といった当たり前の価値でした。」(98年「WIRED」3月号より)
(ヤマダ)

読書歴
76年のインタビューで、萩尾は「学生のころはSFを読みあさり、あとは、まんがしか読みませんでした。」と述べているが、実際は小学生の頃は、『青い鳥』や『アルセーヌ・ルパン』、『ギリシャ神話』や『グリム童話』を始めとする神話・民話・童話、『若草物語』や『赤毛のスカーレット』などの少女小説などまんべんなく読んでいる。小学生の頃に、もう『月世界旅行』、『地球最後の日』などのSFを読んでいるが、SFに夢中になるきっかけは、中学に入ってから読んだ、アシモフの『宇宙気流』(当時のタイトルは『惑星SOS』)で、アシモフはその後1年ほどで読破。同時期ハヤカワのSFシリーズで『月は地獄だ』、『第四氷河期』など読めるだけ読んだ。また眉村卓など日本のSFにも親しむ。
高校時代は、クラーク、ハインライン、ディック、ブラウンなどのSFを読みふけり、他には有吉佐和子、司馬遼太郎、『聖書』なども読んだ。

69年に専門学校の学生時代、正式にマンガ家としてデビューしたのだが、この頃いわゆる文学らしい書物を初めて読みはじめる。最初に手に取ったのはドストエフスキーとヘッセ。その後リルケ、コクトー、ハイネなど。SFではこの頃、表紙にひかれて読んだ『10月はたそがれの国』をきっかけにブラッドベリに凝りだす。70年代後半の萩尾の読書量は凄いものがある。手当たり次第という感もあるが、その中にユング、フロイトなどの心理学関係のものも含まれていたようだ。以降の読書に関しては、95、96年に「ダ・ヴィンチ」が行っているインタビューに詳しい。
結論としては、萩尾は活字でもマンガでも、とにかく読むことが好きらしい。ということだ。

(参考)76年『週刊マーガレット』34号、77年『女性セブン』2/10号、同『プチ・コミック』6月号、同『モンブラン』12月号、78
年『別冊新評』7/10号、同『萩尾望都の世界』テレビランド増刊7/3・2刷発行、79年鈴木光明の『少女まんが入門』、81年『ユリイカ』7月増刊、87年 『ef』1月号、91年『SPA!』7/31号、95年『ダ・ヴィンチ』8月号、96年『ダ・ヴィンチ』7、8月号、98年CD-ROM『Sanctus』、98年『思い出を切りぬくとき』4月刊。
(ヤマダ)

【な行】

24年組
手元にある資料中、萩尾本人が関係した記事でこの語を確認できたのは、81年『ユリイカ』 臨時増刊での対談で、記者が発言するのを見 かけたのが、唯一の例。
(ヤマダ)

【は行】

『萩尾望都の世界』
70年代後半に出版された、萩尾望都に関するムック本のこと。この本に掲載されている幾つかの年表が興味深いので特記した。つまりある作家についての本に掲載される年表といえば、普通その作家の作品年表だと思うのだが、これには『吸血鬼・漫画年表』、『エスパーミュータント・漫画年表』、『ファンタジー・漫画年表』なるものが掲載されているのだ。この年表は、別に萩尾作品のみの年表ではなく、吸血鬼〜では石森章太郎の『きりとばらとほしと』が、ファンタジー〜では手塚治虫の『リボンの騎士』が最初にあげられている。つまり、萩尾マンガはこの年表のどのマンガと比較しても、エポックメイキングな作品だったのだろうと推測できる、おもしろい年表なのだ。萩尾マンガには、当時から、それを通してマンガ全体を考えさせる何かが あったのだなと思う。
(ヤマダ)
参考【漫画年表

バラ
萩尾の初期作品によく描かれる花は小花があつまったもので、服やカーテンの模様、あるいはデザイン的な背景の装飾に、ひかえめに登場する。表紙にはっきりバラが描かれ印象的なのはデビューから16作目の『モードリン』、そしてその素朴で意外な美しさで目を引くのは、少年に植え込みのバラを配した21作目『秋の旅』の表紙である。「ポーの一族」シリーズになるとバラはたいへん重要な小道具として登場し、さまざまな種類のバラが描きわけられるようになる。このシリーズがおわると再びバラの登場はだんだん減ってゆく。もちろん、その後も85年発表の『ばらの花びん』で小道具として登場したりするが。『ゴールデン・ライラック』、『フラワーフェスティバル』など女性・少女を意識したマンガでは、タイトルに花を付け、作品内にも多く描くといった風に、デビュー時から現在に至るまで、彼女はとても注意深くバラも含めた花を用いて来た。
(ヤマダ)

パリのホテルのトイレ
時は76年、マンガ家・ささやななえ(現、ななえこ)と、萩尾一行がパリのホテルで一緒に過ごしたことがある。そのホテルのトイレの壁は床から天井まで窓(つまり、多分ガラス張り)で、道行く人が見えるのだそうだ。道行く人が見えるということは、道行く人からも見えるということ。他のすべての人がトイレを我慢した挙げ句、便秘で苦しんでいた中、萩尾のみが平気でそれを使用し、健康なままだったそうだ。(『この娘うります!』萩尾望都作品集15より)
(ヤマダ)

平田真貴子
第1回講談社新人漫画賞(少女漫画の部)に入選し『バーバラ・アン』(「少女フレンド」67年4/18日号)でデビュー。デビュー作品には「16歳のおねえさま」と添えられている。『彼はスパニッシュ=フリー』、『とってもしあわせ』などの作者。
萩尾はこの同郷のマンガ家に講談社を紹介してもらってデビューを果たした。
(ヤマダ)

ファンレター
萩尾は初期の頃、おもしろいファンレターをくれる読者によく会っていたようで、後にマンガ家になる水樹和佳・佐藤史生などとはファンレターがきっかけで知りあったそうだ。70年代半ば、萩尾には週に数千通のファンレターが来ていたとのこと。同時期のインタビューで、彼女は
”デビューしてまもないころ、父から出版社の編集部に手紙がきて、「非常にいい作品だ。これをモトコが考えたのならえらい」とかいてありました。あれは、父親からのファンレターなんですね。だからほめられた『塔のある家』は思い出の作品なんです。"と述べている。(76年「週刊サンケイ」5/13号、77年「女性セブン」2/20号参)
(ヤマダ)

双子
少女マンガにはもともと双子の話がよくあるが、萩尾作品は、デビュー作からすでに双子の話だし、彼女は野田秀樹と「共通点は!? ”双子”好き」という対談をしたこともあるそうだ。双子に関しては他にご本人による以下のような記述がある。
”私はむかしも今も、双子にあこがれていますが、それは、双子なら同じ魂をもち、互いに無防備な他者であり私である関係が成り立つのじゃないかという、幻想があるからです。”(『思い出を切りぬくとき』あとがき)
彼女の作品の内、双子が登場するものを発表順にあげてみよう。
『ルルとミミ』(デビュー作)、
『ケネスおじ とさんふたご』、
『もうひとつの恋』、
『11月のギムナジウム』、
『セーラ・ヒルの聖夜』、
『ミ ーア』(主人公の隣人プチとパピ)、
『この娘 うります!』(『ミーア』にもでてくるプチとパピ。本名はプチットとパピヨン)、
『アロイス』
『半神』、
『モザイク・ラセン』、
『あぶない丘の家』(シリーズ中『あぶない未来少年』)、
『残酷な神が支配する』(バレンタインとエリック)の12作。
あげてみると案外それほど多くないようにも感じる。だが双子が多い印象を受ける理由は、彼女のマンガに、似たもの同士、つまり、クローンや、同じ人が時代を越えてくりかえし登場するとか、そういったものが多いからではないだろうか? 人ではなくても、くりかえしは彼女の好む題材だと思う。例えば『トーマの心臓』、『アロイス』、『マリーン』、『みずうみ』、『花と光の中』、『ヴィオリータ』、『金曜の夜の集会』、『AーA’』、『銀の三角』、『X+Y』などの中に、似たもの、くりかえし、クローンの題材がある。
(ヤマダ)

藤岡琢也
78年の手塚治虫・松本零士との対談で、理想の男性像をきかれて、萩尾は、顔の丸いタイプが好きだと答えている。ある俳優に夢中になったことがあって、その人がたまたま丸い顔だったそうだ。その俳優が藤岡琢也。そういえば萩尾の大好きなジャッキー・チェンも丸い顔かも。
(ヤマダ)

「文学的」
例えば『残酷な神が支配する』に対するイェイツのように、萩尾作品が具体的な文学に影響を受けていることを指摘することと、それを「文学的」と評することとは、多分違う。評する人に悪気がなくても「文学的」には文学のニセモノという匂いがするからだ。「カニ風味」の様に。同様に彼女の作品によく与えられる「少女マンガを越えた」という評も疑問だ。「少年マンガを越えた」という表現を見たことがないところをみると、始めから「少女マンガは越えなくちゃいけない低いもの」といった雰囲気を感じるからだ。考えすぎだろうか? 例えば、”男が少女まんがを堂々と読めるようになったのは、萩尾の作品のおかげでありました…。”(『前代未聞のCD-ROM『Sanctus』藤田尚、『COMIC・BOX』98年8月号記事)などは賛辞として理解できるのだが。
(ヤマダ)

【ま行】

マダム鶴子の優雅な生活
萩尾望都と演劇というと、『半神』を劇化して成功した「劇団夢の遊眠社」がまず頭に浮かぶと思うが、萩尾がマンガ家となってから、役者として舞台に立ったことがあるのをご存じだろうか? 84年のお正月に東京・本多劇場で行われたこの劇は、萩尾他、楳図かずお、花村えい子、いがらしゆみこ、木原敏江、美内すずえ、ささやななえ、名香智子、 いまいかおる(木原敏江全集3『天まで上がれ!』1巻、角川書店刊、参)。やっているならぜひ見てみたいが、この舞台はこの時一度切りだったようだ。残念。
(ヤマダ)

マンガ歴
萩尾望都が、マンガ論的なものを最もまとまった形で展開しているのは、95年の『imago』4月号での対談ではないかと思う。この他、萩尾のマンガについてのコメントを色々あわせて、彼女のマンガ歴をなるべく詳しく書き出してみたい。

56〜61年、小学生の頃。1冊の月刊誌が130円程度だった。小2の時できた学級文庫で、『リボンの騎士』、『鉄腕アトム』、『ビリーパック』、『赤銅鈴之助』、石森章太郎、牧美也子などを読む。この頃、少女誌に載っていた横山光輝の吸血鬼ものを見て、吸血鬼に興味を持つ。この横山マンガの後に読んだ石森章太郎のオムニバス形式の吸血鬼もの、『きりとばらとほしと』は彼女の話にしょっちゅうでて来る。石森作品では小6か中1の頃読んだ『きのうはもう来ないそしてあすもまた』も印象深かったようだ。同時に他の作家のギャグマンガ『よたろうくん』なども好きだった。女性のマンガ家は当時少なく、上田としこ、わたなべまさこ、今村洋子、水野英子などがいた。牧や今村なども好きだったが、特に夢中になったのは水野英子である。

62〜64年、中学時代マンガ週刊誌ができる。最初は一冊35円とか40円だった。ちばてつや『ユキの太陽』、細川知栄子『東京シンデレラ』、細野みちこ『白鳥少女』、水野英子『黒水仙』、望月あきら『いっそ死にたい」、牧美也子『アニキ』、北島洋子『森の子カンナ』、中島利之『カナリア少女』を読んだのはこの頃。中3の時、里中満智子が『ピアの肖像』で、青池保子が『さよならナネット』でデビュー。その後続々と女性マンガ家が登場しだす。自分で買った雑誌や、馴染みの古本屋にもらった雑誌等をバラバラにして、自前の総集編を造るのに凝る。この趣味は中・高・専門学校時代までつづく。中学から高校の頃は、矢代まさこと水野英子に強く影響を受ける。

65〜67年、高校時代雑誌は「COM」を読んでいた。手塚治虫『火の鳥』、石森章太郎『ジュン』、永島慎二『漫画家残酷物語』の頃。岡田史子の絵が好きで、95年の対談では、『死んでしまった手首』、『ほんの少しの水』が話題にでている。また、同じ対談の中で、「『ガロ』も少し読んだ事がある。『カムイ伝』がおもしろかった。同時期白土は『ワタリ』と『カムイ外伝』を連載していたが『外伝』が特に面白かった。また山上たつひこの『光る風』や、『父帰る』『こころ』は大傑作だと思う」と述べている。
高2のおわりごろ、小学校の頃1部だけ読んでいていつかまとめて読みたいと思っていた、手塚治虫の『新選組』を読み、”読後、感動のあまり、一週間ほど惚けていました。”というほどの感動ぶり。マンガ家になる決心をするきっかけとなった作品として、ことあるごとに発言している。

76年の対談で、『サイボーグ009』ではジョーのファンと述べ、77年のアンケートでは、好きな少女マンガ家は大島弓子と述べ、当時の近作『さようなら女達』を評価。同アンケートで好きな自作は『11月のギムナジウム』、『塔のある家』、『小夜の縫うゆかた』かな、と記す。

以下、いつ頃読んだか特定できないが、萩尾が何らかの形で評価、分析しているマンガ 及びマンガ家を挙げていこう。まず萩尾は、81年の対談で、少女マンガの中で自己表現というようなものを問題にしたのは西谷祥子ではないかと推測。93年のインタビューでは、山岸凉子の『アラベスク』以上のバレエマンガは出ないのではないかいう内容のことを述べている。西谷祥子に関しては、95年『imago』での対談でも話題になっている。西谷祥子の『踊る人形』は全編ほとんどモノローグの作品だった。彼女や矢代まさこ、後には大島弓子や木原敏江のモノローグが印象深い、とのこと。この対談は少女マンガ技術史的な部分を、萩尾がかなり熱心に述べていて興味深い。他には、水野英子や池田理代子は少女マンガのいわゆるスタイル画を、ストーリーにからめて描くのが巧かったとか、『残酷な神が支配する』の児童虐待というテーマはささやななえの『こおりついた瞳』からだとか、手塚治虫の『魔神ガロン』を何かのときにすぐ思い出すこととか、他にも、森川久美『天の王冠』のコマ構成、大島弓子の『誕生』『ジョカへ』『綿の国星』、山岸凉子、『ガラスの仮面』の『たけくらべ』と『二人の王女』の章について、『動物のお医者さん』、『輝夜姫』、『月の子』、岩館真理子『アリスにお願い』、『ナウシカ』、安彦良和、本村三四子、浦野千賀子、青池保子、手塚の『アトム大使』『キャプテンケン』などについて述べている。

〔参考〕76年『別冊少女コミック』6月号、同『週刊マーガレット』34号、。77年『プチ・コミック』7月号、78年『増刊リリカ ユニコ特集』1月発行、同『テレビランド増刊/萩尾望都の世界』7月2刷り発行、81年『ユリイカ』7月臨時増刊号、92年『クレア』9月号、95年『imago』4月号、96年『ダ・ヴィンチ』7月号。
(ヤマダ)

モトコ
「萩尾望都」は本名だが、彼女はずっと「モトコ」と呼ばれておりそれが自分の名前だと思っていたので、望都が正式な名前だとある日知り、驚いたそうだ。「望都」の名はお父さんの希望で、戸籍でも望都となっているとのこと。萩尾はこの名前で男の子と間違えられることも多かった。エッセイ集『思い出を切りぬくとき』の中のエッセイマンガに詳しくでている。78年『リリカ』増刊号での鼎談では「望都って名前の人、案外よくいたらしいんです。歌人なんかにもいるし、クラスメイトにもいたって母がいってました。」と述べている。

【ら行】

旅行
萩尾の旅行は圧倒的にヨーロッパが多い。初の海外旅行は72年の秋頃。旧ソビエトの数都市とヨーロッパの数都市を、約1ヵ月の日程で。同行者は竹宮恵子、山岸涼子、増山のりえだった。73年〜74年にかけて5ヵ月間イギリスに語学留学をしている。この2回を合わせて、70年代だけで4回もヨーロッパを訪ねている。4回目、79年の旅行では途中でちばてつや・松本零士と合流し、ヨーロッパだけでなく、コンコルドに乗ってブラジルへ行き「アマゾンの支流で、船の上から見上げた銀河は、どこまでも明るく、見ても見ても奥が続いていた。そのとき、銀河が『底なしの漏斗のようだ』と感じた。」と後に回想するほど感動している。
81年年末年始に、モスクワーバレエ観劇に行き、82年末、前年に続きバレエ観劇のため訪れていたモスクワで、乗っていた観光バスが衝突事故を起こし重症に。2週間ほど現地の病院に入院したのち帰国。翌年はケガの療養のため、予定していたバリ旅行をキャンセル。しばらく旅行を控えた後、86年にはローザンヌ・バレエ・コンクールを観にスイスへ。ローザンヌには、87、88、92年にも同様に訪問している。萩尾のバレエ好きは、71年に山岸凉子に誘われて、バリシニコフを観にいってからだということだ。
87年8月、エディンバラ国際芸術祭で上演される「劇団夢の遊眠社」の第34回公演『野獣降臨(のけものきたりて)」を観劇するために渡英。翌88年にも第1回ニューヨーク国際芸術祭で上演される「劇団夢の遊眠社」の第36回公演『彗星の使者(ジークフリート)』を観劇するため渡米。
90年春『ローマへの道』の取材のため、ローマを訪問。同年8月、エディンバラ国際芸術祭で上演された「劇団夢の遊眠社」の第3回公演『半神(リニューアル・バージョン)』を観劇するために渡英。95年11月イギリスへ観光をかねた取材旅行へ。同年12月台湾『学校巡りツアー』にめずらしく両親とともに参加している。
(ヤマダ)

[参考] CD-ROM『Sanctus』(98年発売)、別冊宝島『70年代マンガ大百科』(96年発刊)、 (『ダ・ヴィンチ』96年7月号)


ヤマダトモコ●マンガ研究者。
1967生まれ。藤子不二雄大先生と同じ高岡で生まれ、二人が出会った定塚小学校を卒業したのが自慢。女子大卒業後、マンガ専門店と川崎市市民ミュージアム漫画部門で学芸補助のバイトをしながら、マンガ研究修行をする。出産のためマンガ専門店は退いたが、ミュージアムのバイトは継続中。研究者の肩書きがついたのは今年から。

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