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【竹宮恵子「一年間休みました」について】

参考:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/167011...



竹宮恵子がインタビューなどで語っている「一年間休みました」について検証
参考【竹宮恵子:年表



発言リスト(個々の資料は以下参照)
竹宮26歳
なんとなく大学にはいってしまいました。そのうち、週刊誌の仕事ができて(月刊mimi)

竹宮28歳
作品が描けなかった時期もありました(テレビランド増刊イラストアルバム)

竹宮29歳
「かぎッ子集団」入選のアトすぐ「ファニー」で連載を始めた(PasseCompose)

竹宮30歳
まる一年、漫画をやめた(育てる)
一年間休むことを宣言してしまった(育てる)
「一年休みますから」というようなことをしっかり言って(育てる)

竹宮32歳
漫画生活に1年のブランク。(実際は完全なブランクではなく、メジャー誌に描いていなかっただけ。)(ぱふ)

竹宮34歳
学生とまんが家を両立させるために、当時の竹宮恵子は、東京と徳島をトンボ返りで行き来していた(文:増山法恵)(COMIC Seventeen)

竹宮38歳
「連載できません」て断わったりして、一年間休みました(スピーチバルーン・パレード)
半年で私がマンガやるために東京に出ていくことになって(スピーチバルーン・パレード)

竹宮50歳
最初の連載が決まったのが大学に入ってすぐ(週刊文春)
そのうち、連載が増えてきて(週刊文春)
最初の年からマンガの仕事もあって、両立させながらの学生生活でした(岩波ジュニア新書357)
「いま学生運動が盛り上がっていて、いったいどんなことがあるのかどうしても知りたいので、マンガ活動はちょっとお休みします」といって、一年間「休業」しました(岩波ジュニア新書357)

竹宮66歳
●1年間マンガを描くのを休んで(京都精華大学アセンブリーアワー講演会)
作家活動を1年間休む(とんぼの本カレイドスコープ)
大学を中退し上京(とんぼの本カレイドスコープ)
1年の休業(私は大学の学生運動のなりゆきに興味を向け、マンガ家を休業していた)(少年の名はジルベール)
1年間マンガを休業し(扉はひらく いくたびも)
1年間の休業期限を終える頃(扉はひらく いくたびも)



1950年(昭和25年)
02月13日:生誕



1966年(昭和41年)
02月13日:満16歳
04月01日:高校2年生
10月
竹宮:東京への修学旅行で滞在中に石ノ森の仕事場を訪ね、アシスタントをしていた永井豪らに出会う
*「とんぼの本カレイドスコープ」159ページ(2016年発行、竹宮66歳)



1967年(昭和42年)
02月13日:満17歳
04月:高校3年生
「ここのつの友情」COM7月号
「弟」COM12号

倉持:当時竹宮さんは高校3年生で、徳島大学を受験するので、まんがをやめますと手紙が来たんです。
尊敬に値する人ですね:ぶ〜け副編集長・倉持功】ぱふ1982年8-9号




1968年(昭和43年)
02月13日:満18歳
合格者名が掲載されている徳島新聞1968年03月15日夕刊→資料提供:https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/gcomic/167348...
04月:大学入学

竹宮なんとなく大学にはいってしまいました。そのうち、週刊誌の仕事ができて(後略)
対談:里中満智子・竹宮恵子】1976年(竹宮26歳)


竹宮:(編集:大学での2年間について)悩むあまり、作品が描けなかった時期もありましたね。
竹宮恵子:ライフヒストリー】1978年(竹宮:28歳)


秋山:大学1年のときは?
竹宮:「かぎッ子集団」入選のアトすぐ「ファニー」で連載を始めた
「かぎッ子集団」は「COM」1968年7月号
「ファニー」での連載は「スーパーお嬢(こい)さん!」1969年05-10月号
「かぎッ子集団」の「入選のアトすぐ(原文ママ)「ファニー」で連載を始めた」にしては掲載月号基準で10ヶ月の開きがある
 【竹宮恵子「ファニー」掲載作品表紙1969-1970
秋山:それから、大学に行きながら順調にマンガ家の道へ、割と苦労しなかったみたいですね。
竹宮:デビューは誰でもできるのよね。そこから先が、オソロシイの。可能性だけで勝負できた頃はよかったなあ。(当該インタビューでは秋山氏の発言『大学に行きながら順調にマンガ家の道へ』に対して否定していない)
PasseCompose 竹宮恵子インタビュー】1979年(竹宮29歳)


竹宮まる一年、漫画をやめて、とにかく悩むことが多かったんです。
竹宮一年間休むことを宣言してしまった
竹宮:後日、「各社が引き抜こうと狙っていたのに、一年間全く描かなかったなんて考えられない」と言われました。
竹宮:「一年休みますから」というようなことをしっかり言って、退いていたような気がするんです。
竹宮恵子インタビュー:漫画の学校】 1980年(竹宮30歳)



1969(昭和44)年、徳島大学1年生。
タブルデートのときの写真。
「ぱふ」1980年04月号153ページ(竹宮30歳)
この資料には1969年の「何月」かが明記されていない
そのため「徳島大学1年生」が1968年度(1968年04月-1969年03月)か1969年度(1969年04月-1970年03月)かは不明
竹宮恵子:アルバム


竹宮:そして私は学校行くことを選んだの。(中略)それにお金がないから国立で奨学金受けて入れちゃったの。それを無駄にするのはもったいないという(笑)。合理主義なんだよね。
ぱふ:そして大学の2年間、学生やりながらやはりまんがはやっていたと。その間学生闘争で脱けたりしたけれど、2年目にして上京してきたわけでしょう?
竹宮その間に編集者から声がかかって、ちょっと東京で仕事してみないかと言われて(編集の発言『そして大学の2年間、学生やりながらやはりまんがはやっていたと』に対して否定していない)
インタビュー:第1部「人間・竹宮恵子」1】ぱふ1982年8-9号(竹宮32歳)


竹宮:学生運動、社会問題に真剣に取り組み始め、マンガを描かなくなる。自分の中でケリをつけるまで描かないと決心したらしい。漫画生活に1年のブランク。(実際は完全なブランクではなく、メジャー誌に描いていなかっただけ。)
竹宮恵子:自筆年譜 】ぱふ1982年8-9号(竹宮32歳)


文:増山法恵
大学を出て教師になるという竹宮恵子が180度転換する。
「まんがという手段で学校では教えないことを、若いやわらかな心に伝えよう」
学生とまんが家を両立させるために、当時の竹宮恵子は、東京と徳島をトンボ返りで行き来していた
わたしのデビュー時代:竹宮恵子・増山法恵】1984年(竹宮34歳)



竹宮:入ったら、学生運動を始めちゃって。それで「連載できません」て断わったりして、一年間休みました(笑)。
竹宮学業がおろそかになるのはしょうがないって、ほとんど出なかった気がしますね(笑)。(略)まじめにつきあってたBFもいたんですけど、半年で私がマンガやるために東京に出ていくことになってしまって…。(略)
竹宮恵子インタビュー:スピーチバルーン・パレード1988年】(竹宮38歳)


竹宮:入学が昭和四十三年。「COM」の新人賞に入選して、最初の連載が決まったのが大学に入ってすぐです。
竹宮そのうち、連載が増えてきて、地方にいてはどうにもやっていけないと痛感して、上京することを決意するんです。
竹宮惠子:「家」の履歴書】2000年(竹宮50歳)


竹宮:最初の年からマンガの仕事もあって、両立させながらの学生生活でした。
大学活用法:岩波ジュニア新書357(第9刷)136ページ】2000年(竹宮50歳)


竹宮:「いま学生運動が盛り上がっていて、いったいどんなことがあるのかどうしても知りたいので、マンガ活動はちょっとお休みします」といって、一年間「休業」しました。
大学活用法:岩波ジュニア新書357(第9刷)140-141ページ】2000年(竹宮50歳)


竹宮:徳島で大学に行っていたころは、ちょうど学生運動が盛んだった時代です。私はそのことに非常に関心をもっていましたので、1年間マンガを描くのを休んで、学生運動について考える時間をもちました。
竹宮惠子:京都精華大学アセンブリーアワー講演会 2016年05月19日】(竹宮66歳)


竹宮:「革命だよ、人生は!(とんぼの本カレイドスコープ:2016年09月15日)より抜粋
1968年(昭和43年)18歳
4月、徳島大学教育学部(81年から鳴門教育大学へ移行)美術科入学。学生生活に興味が向き、作家活動を1年間休む
1970年(昭和45年)20歳
「週刊少女コミック」の編集者、山本順也が原稿依頼に徳島までやってくる。5月、初の週刊連載「森の子トール」を開始。各社から原稿依頼が増え、旅館に「缶詰」に。大学を中退し上京
「とんぼの本カレイドスコープ(2016年09月15日)」159-160ページ(竹宮66歳)


竹宮1年の休業私は大学の学生運動のなりゆきに興味を向け、マンガ家を休業していた)を終了した途端(後略)
「少年の名はジルベール(小学館文庫2019年11月06日)」8ページ(単行本は2016年発行、竹宮66歳)


竹宮:入学した1968年は、大学紛争真っ盛り、考えねばならないことがたくさんありました。そこで1年間マンガを休業し、学生運動について考えることにしました。
「扉はひらく いくたびも(2021年)」44ページ(竹宮71歳)
竹宮1年間の休業期限を終える頃、小学館の編集者が徳島まで私を訪ねてきてくれました。
「扉はひらく いくたびも(2021年)」45ページ(竹宮71歳)




1969年(昭和44年)
02月13日:満19歳
04月:大学2年生



参考奨学金について

竹宮:このころの私の家の経済状態はあまりよくなかったので、もし教育奨学生の採用試験に合格したら、行ってもいいとは思っていました。幸か不幸かそれにパスしてしまい、せっかくくれる奨学資金を利用しないのももったいないと思い、なかばしょうがなく大学へ行く気になりました。
【少女マンガ家になれる本:122ページ】1980年02月(竹宮30歳)


竹宮 その後、大学の途中で、私はプロのマンガ家として上京してしまい、退学したものだと自分では思っていました。
ある日突然、「アッ、自分の能力をようやく制御できた」と思える作品が描けた。『風と木の詩』を描きはじめたのはスランプを抜けてすぐのころですが、連載をはじめてしばらくして、私が「そういえば、奨学金を返さない人がいっぱいいるらしいって、このあいだ新聞に出ていたけれども、私の奨学金、返していないよね」と言ったときに、母から「ああ、そうだったわね、徐々に返していかなければいけないんだけど。でも、あなたはまだ休学中だから」という話を初めて聞いたのです。
大学活用法:岩波ジュニア新書357(第9刷)140-141ページ】2000年(竹宮50歳)


内田 マンガ家をやめよう、と。
竹宮 はい。『風と木の詩』の連載が始まった後の話ですが(註:連載開始「週刊少女コミック」1976年10号・02月29日号)、ラジオを聴いていたら、大学の奨学金を返納しない人が多いというニュースが流れてきた。いけない、私、奨学金のことなんかまったく忘れていた。中退したのに、まったく返してなかったと思って、親に奨学金の返済はどうしたのって、電話しました。そしたら、あなた、休学にしてあるよ、と
えっ? 今まで休学? もう、何年経ってると思ってるの? もう、休学はやめて退学して、奨学金も返すからと、電話で話しました。その時は、もう、スランプを抜けていたから良かったのですが、電話を切ってから、いやあ、もしスランプの時にまだ休学中だと聞いていたら、大学に帰ったかもって思いましたね。
竹宮:苦悶のスランプ、大学休学・退学】「竹と樹のマンガ文化論」2014年12月06日(竹宮64歳)



この期間に発表された作品
1968年
「リンゴの罪」週刊マーガレット正月号増刊
「かぎッ子集団」COM7月号
1969年
「ゆびきり」なかよし1月号増刊
「ルナの太陽」なかよし3月号
「スーパーお嬢さん!」ファニー5-10月号(連載)
「カップリングoh!」ファニー11/14号
「ギターと三味線」ファニー11/28号,12/12号,12/26号(連載)


「とんぼの本カレイドスコープ(2016年09月15日)作品リスト(一部)」196ページ(竹宮66歳)



竹宮恵子「ファニー」掲載作品表紙1969-1970

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